自問自答のすすめ

『人生が変わる。自分を変える。』

情報とはなにか?『応用編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
ーーーーーーー

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今回の定義
情報とは?【知識・知らせ】
情報の価値?【人・目的により変動する】
真実性の高い情報を取得する方法?
【発信者・出来事の、5W1Hを考える事】

ーーーーーーー
目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《疑問編》

 
新聞(又NEWS)は読むべきか?
 
この疑問に答えたくて、情報の定義をわざわざ作ったようなものだ。
よくこの問を見かけたり、ニュースで見ることがあったので、自答してみた次第だ。
 
結論から言うと、
人によっては読むと"便利"』程度の事なのだけれど、新聞を読む事が必要か否か?を疑問に思っている人が多いので、それに答えたい。
 
 
 
まず新聞とはなにか?だが
 
新聞とは情報を目に見えるようにしたものである。この時点でわかるが、新聞は情報媒体の1つであるという事がわかる。
 
となると、新聞以外にも、
本 映画 漫画 広告 …等
なんでも情報媒体である事は容易に想像できると思う。
 
では新聞とそれ以外の情報の相違点はなんだろうか?なぜ世の中では新聞推しの人間がいるのだろうか?
 
 
簡単に、新聞にのっている情報をあげると
 
広告 国・世界の出来事 生活知識 経済 株価 
コラム 豆知識 …等があげられる。
 
全国紙ではもちろん、
同じく国に住む人に共通の需要のある広く浅い知識を提供している事がすぐにわかるはずだ。漫画や映画などはコアな情報であったり、創作であったりするのに対し、
新聞は広く浅い現実の出来事を述べたものが、散見される。もちろんデマも数多く存在するし、作者の意図は介入するが。
 
注目すべきはニュースや広告だと思う。世の中の意見や時代の流れが若干読み取れる。
今何が流行っていて、何が注目されているのか?などだ。
 
さらに、情報発信者がわかるため、本と同じように、某掲示板などよりは情報の信用性が高い。(が、信用できるとまでは言えない)
 
 
このような情報だという事がわかる。
 
 
 
 
ではこのような事がわかるとどういったメリットがあるだろうか?
軽く浮かんだものだけあげてみよう。
 
①コミュニケーションツールになる
 
全国の人に共通の需要のある社会の出来事を知るという事は、赤の他人とも共通の話題があるという事になる。
 
②常識人になる
 
通常人は未知な人間を恐れる。
だが、一般的な認識のある人間を人は受け入れやすい。
常識の定義で述べたが
新聞や本を読む人を、大人だ。と表現するのは、大人というのは常識人(その社会においての成熟・精通)を意味するからである。
 
別の言い方をすれば、
変化の激しい現代に生きながら時代錯誤な人間でい続ける危険を回避する事ができる
 
③暇つぶしなる
 
いうまでもない。ゲームと同じようなものである。
 
④その他生活上役に立つ
 
 
簡単にメリットをあげてみたが、
 
新聞を読む必要はあるのか?
考えてみればもうお分かりだと思う。
 
あなたの『人生や仕事の目的による』としか言えない。
 
当たり前だが
あなたが人生に特に目的を設けていないのなら情報は無意味である。
なぜなら情報とは目的がある時に始めて需要が生じる。つまり、価値が生じるからだ。
 
 
例えば、
虚栄心や自尊心を守る目的から知識を集める事自体が目的の者がいれば、情報はどんな豆知識(うんちく)でさえも価値のある情報になる。
 
夢を叶えるという人生の目的がある者がいれば、そこに繋がる情報は夢を叶えるための様々な武器になりうる。
 
仕事で成果を出したいという目的がある者がいれば、情報は顧客とのコミュニケーションや、マナー、業界の流れや社会の大きな流れを知るために使うなど、仕事において武器になりうる。
 
生活で損をしたくないという目的がある者がいれば、損しないための情報は自分を守るために有益なものとなる。
 
情報を武器と表現したが、目的がある場合、
情報は力の一つであると言えると思う。
 
 
 
新聞を読むと役に立ちそうな人をあげるなら以下のような人達だろう。
・常識人になりたい人
・社会人に馴染みたい人
・コミュニケーションに精通したい人
・生活に役立つ知識を得たい人
・世界の流れを知りたい人
普通のサラリーマンなら新聞は見ていて損はないと言えるだろう。
 
 
 
 
以上のように述べてきたが、
 
他人が『新聞を読むべきだ。』というのは、常識人からして、未知な人間は怖く、さらに会話ができず、世間知らずで仕事で使いづらい。等といったところからくる軽蔑や憤り、又アドバイス等だろうとわかる。
 
おもにこのような意見の人が言っているのは全国紙の事だ。
社会に溶け込むために、大人ならまず世間を知り、郷に従え。といったところだろうと思う。
 
私からすれば"大人らしさ"の押し付けに見える。大人である必要性等、他人が想像できる範囲内の人間でなければ社会生活を送る別の人間が安心できないからに他ならない。他人の問題なのだ。
 
実際は、
一定の子供の頃に学ぶ道徳性をある程度身につけていて、犯罪を犯さなければ立派な社会人である。
 
 
 
ここまで述べた新聞は読むべきか?に対する解釈には注意点がある。
新聞は目的によっては有益であると述べたが、なにもこれは新聞に限った話ではない。
 
新聞は読むべきか?と問えば、読んだ方が有益だろう。となる。
が、それはテレビのニュース、アプリのニュース、雑誌、漫画、映画等でも同じ事だ。
 
映画は見たほうがよいか?と問えば、豊かな人生のためには見たほうが良いかもね。となる。
 
肝心なのはなんの情報を武器とするか?
あなたの目的は何か?を明確にして情報を浴びる事である。
情報を武器とするか、盾とするか、
はたまた暇つぶしとするかはあなた次第であり、あなたが必要ないと思ったなら、読まなくても良い。
 
新聞を読む必要があるか?という問は
他人に聞く問題ではない。自分に聞く問題である。
実は、そういう問なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
情報社会?
 
当然だが、
造語であることがわかる。
情報本来の意味でなく、
情報社会というひとまとまりで一つの意味となっているという事だ。
 
百科事典をひけばわかるが、
農耕社会や産業社会などと同じような言葉であり、情報産業(情報の収集蓄積・検索・加工・処理・提供などにかかわる産業)が発展するような社会を色々な立場から様々な範囲で定義付けた言葉であり、一般的に利用するには便利だが、
曖昧さの残る言葉であり、世の中の言葉を分かりづらくしている要因の1つだと思う。
 
例えば考察編ですでに述べたのだけれども、
ITとはinformation technology
のことだが、確かに直訳すれば"情報技術"ではあるが、実際使われているのは通信技術やコンピュータ関連の職種において様々な範囲で使われる用語だ。単純に情報技術といっても言葉単体では何の説明にもなっていないし、情報を処理したり加工する技術だとしても、例えば"情報処理技術者"はパソコン関連の資格だが、
言葉通りとらえれば、新聞屋や広告屋もはてはたんなる読者さえ情報処理技術者である。
が、世の中の情報処理技術者はそうなってはいない。
ここでいう情報には、通信関連の意味合いが含まれており、私の定義のいうところの情報ではない。英語訳をしただけの別の意味の情報である。
この"情報"を定義づけするには通信技術の範囲を知るところからスタートしなければならず、稚拙な定義になるのが簡単に想像できたので、定義づけしていない。
 
 

《名言編》

 
 
知恵は知識にまさる パスカル
 
情報は知識を含んでいるように私は解釈する。なので知恵(発想)は知識(情報)に勝ると言っていると解釈できる。
今回名言編での気づきは、次の名言にある。
 
 
想像力は知識という土台の上に作られる エリザベス・スチュアート・エルプス
 
情報の一部が知識だと解した時、
情報という土台があってこそ、創造・発想ができる。アイディアが浮かぶ
と言っているように取ることができる。
 
知恵は情報に勝るとパスカルは言っているが、とどのつまり、情報を集めて知恵を生む。知恵の発現の前段階としての栄養が情報なのだと言い換える事が出来る。
 
これは、基礎のできてないものに、本当に新しいものは生み出せない。温故知新が大事だ。と言った私の恩師の言葉とも若干一致するように思う。
 
 
これはこう応用することが出来る。
例えば、やりたい事がない事で悩んでいたとする。
やりたい事がないという状態は、やりたい事が思い浮かばない。発想できないという状態である。
 
あなた自身のやりたい事は、
学ばなければアイディアさえ浮かばない。
だからやりたい事がないのであれば、
 
それは経験値や情報がそもそも足りないのかもしれないのかもしれないという事だ。
様々な本を読み、様々なことを体験、経験したりする事により、目的それ自体。つまりやりたい事を発想する事が出来るようになる。
 
この世界は、生きるとは?の定義ですでに自答にしたが、生きる意味は誰かに問わず、自分で見出さなければならない。
さらに生きる目的も、自分で経験し、体験し、決めなければ誰かに利用される(RPGでいうところモブキャラ)だけの日々となるだけで、自分を主人公に昇華する事ができない。
 
目的も、問題の解決も、そもそも栄養となる情報なくして発想する事ができない。
ゆえに情報はRPGで言えば経験値でもあり、土台でもあるのだ。 
 
 
 
さらに情報において大事な事は次の名言だ。
 
本には情報が載っているにすぎない。知識は情報を特定の仕事の達成に応用する能力だ。それは人間の頭脳や手技からの発現する。 
情報とは文字ではない。文字で表された知識である。
 
ドラッカーの言うところの知識(ドラッカーの定義)は、少し一般的な定義の知識とは違う。
 私の応用だと知識は一般的な意味で使っていて、さらには情報の一部だが、
ドラッカーは知識と情報は別物だと言っている。その点で定義が全く異なる。
しかし、次の点では同じである。
 
ドラッカーは文字を読み考えるだけでなく、
手を動かす事。そこから生まれるのが知識だ。と言っているが
 
私はそこには共感していて、ドラッカーの知識は私にとっては知恵の事である。
文字以外にも情報は存在し、というより情報とはそもそも文字ではなく、五感で感じるものもまた情報であり、経験や体験、もちろん習慣によっても情報は手に入る。
 
そして本には文字としての知識(情報)が載っているが、"活字のみで優れたアイディアが湧くわけではない”と考える事ができる
 
 
ここまでの名言等を参照すると次のようになる。
 
情報の蓄積+目的=アイディア
情報とは?体験や経験・学問・その他多岐にわたる知識、切り口
 
情報は本を読む事に限られない事は、当然である。
福沢諭吉学問のすすめにも、学問は経験や体験を含むと書いてある
活字だけが情報ではない。
 
 
 
 
 
日本のビジネスマンは地位が上がるほど『現場』を忘れがちなところがある。机の上に積んだ書類を眺めているだけで全てを分かったと思うようになる。これは重大な欠陥である。柴本重理
 
これは先に述べてきた事を、簡潔に述べていると感じる名言のひとつだ。
現場で五感で感じる情報も、情報の一つであり、現場から離れ、数字のみで現場を判断する経営者等の愚かさを述べているのだと思う。
 
情報とは文字ではないのだ。情報はそもそも見えるものではない。
文字を通して情報を得るのが通常だが、
結局得ているのは文字ではなく、情報それ自体である。
 
その情報を本だけ。また数字だけで把握できていると錯覚してしまうのは大いに問題があるというのは明らかだ。それは賃貸物件に足を運ばず、かつ写真も見ずに間取りのみで部屋決めをしているのに等しい。日本のビジネスマンは、偉くなればなるほど、情報に疎くなりがち。という事でもあるのかもしれない。
 
モラルのない人間が、情報を扱うのは、悪魔にタマシイを売り渡すようなものだ。 飯田 亮(セコム創業者)
 
今回旬な名言はこれである。
これは私の定義において述べたい事が端的に述べてある名言の一つだ。
 
情報とは現代において、『』である。
力とは人間にとって物事を思い通りにする作用であり、他者を不自由にする危険な代物である。
正義こそ力を持つべきであり、また力を持つものは正義である必要がある。
 
力とはなにか?の定義で散々述べたが、
力には責任が伴い、さらに他者を不自由にする。悪が力を持てば、正義がねじ伏せられ、かつ害悪にしかならない。
 
私は『現代求められる力』には以下のようなものがあげられると考えている。
『経済・知性・情報・権威』最も国同士においては『武力』も大きな力の一つだろう。
 
これらは全て、
悪に持たすと厄介な代物である。正義がこれを持たなければならない。
悪に負けないためには、とにかく、正義の側の人間はを蓄えなければならない。その鍛錬を怠ってはならない
 
『力』の復習
(金があるものは他者を不自由にできる。
知性を持つものは他者を思い通りにできる。
情報を持つものは他者を不自由にできる。
権威(影響)を持つものは他者を思い通りにできる。
 
知性と情報は違う。
知性とは知恵であり、
情報とは知識である。と私は区別している。
知識バカはいても知性バカはいない。
知恵とは自省する力であり、発想する力、さらに知行合一という言葉があるように、実践する力の意味合いを含む。
 
権威は権力のように、支配し無理やり服従させると行った意味合いを含まない。
歴史が証明するように、そういった権力というのは腐敗し必ず反発をうけて滅ぶ。
現代は情報も溢れており、権力の崩壊を防ぎきる事は難しいからだ。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『情報』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの、
数学の定理のようなものであるのです。
 
のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。
 

情報とはなにか?『考察編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
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"友とは何か? 人生とはなにか?"
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私自身の『定義』を作り
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思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
情報とは?【知識・知らせ】
情報の価値?【人・目的により変動する】
真実性の高い情報を取得する方法?
【発信者・出来事の、5W1Hを考える事】
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私は以前の記事でこのように定義を作成していきましたが、
『考察編』では、定義作成までの流れをご紹介します。
 
お悩みの方などは、
『応用編』をご覧ください。
 
(『考察編』は、実際に
『自問自答』をご自身で行っていただき、
テーマの本質をあぶりだす流れを体験していただく事を目的としていますので、
私の自問自答につきましては、
参考としてご覧ください。)
 
自問自答の方法については、
私のブログの読み方 をご参考ください。
ーーーーーーーーーーーーーー
❶辞書等、世の中の定義を集める
なんとなく世の中の定義が掴めたら次に進みます。
 
 ある物事の内容や事情についての知らせ。インフォメーション。
 文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手に状況に対する知識や適切な判断を生じさせるもの。「情報時代」
 生体系が働くための指令や信号。神経系の神経情報、内分泌系のホルモン情報、遺伝情報など。
 
 
まとめる
①出来事 知らせ 案内
②特定の目的のための判断材料 知識・資料
③記録 記憶 信号
その他
①データ …法律用語の時
 
❷言葉の使用例等を集める
世間のテーマへの解釈や、
偉人達の解釈がなんとなく掴めたら次に進みます。
 
違和感から仮説を立てていきます。
違和感がなければ、定義確定です。
違和感こそが、あなたが見ている世界の対象物の本質への鍵です。)
ん?そんな使い方するか?
と感じたと言う事です。
そうして、 次の手順に進みます。
 
 
ーー
事件についての情報を得る
情報を流す
情報がもれる
極秘情報
情報が入る
情報を集める
情報交換
情報社会 
防災情報 運行情報 信用情報 交通情報 
医薬情報学 停電情報
情報技術
 
まとめ
○○についての知識や速報・知らせ
記録・記憶
 
 
❸仮説を立ててみて、一つ一つ自問自答し確定させていく。
 
仮説『意味は辞書どおり』確定 
①例を出す。(実際に世の中の事案や定義にあてはめていく)
…省略…
(例外がないか探していけば良い)
 
②反対意見を考える(批判する)
…省略…
 
この仮説は正しいように思う。
正しい。しっくりくる。と思った時点で仮説を確定してok
(確定したら、仮説の横に確定と書くとわかりやすいです。)
 
 
 
 
情報技術など、情報単体とは別に意味が発生する言葉があるため、
意味を把握しづらい。
例えば、情報技術というのは、コンピュータやデータ通信に関する総合的な処理技術をさすが、範囲は限られておらず、通信関係の広範囲の技術をさす。
 
情報は単なる知識や知恵、知らせなどの処理技術と考えると、
なにもコンピュータや通信技術に限らない話となるはずである。
 
例えば新聞を書いている人も情報処理技術者である。
日常の出来事の中で起こるさまざまな出来事(情報)を、
読者目線で解説したり、読者にわかりやすいよう図をつけて説明するのは
すべて情報を処理している事に変わりないからである。 
 
外国語を日本語に直訳したのでは、ある種はっきりした言葉の説明ができない事が生じることがあるのだとわかった。 
外国からきたことばを翻訳しただけの言葉はしっかり吟味する必要があるようだ。
 
 
仮説『情報には質に違いがある』確定
 
…省略… 
正直考えるまでもないと思ったが、情報には質の違いがある。
 
情報は主に
・価値 ・真実性
により違いが生まれる。
 
 
・価値
例えば、『日本にはコンビニエンスストアがある』という情報は、
東京に住む日本人にとって価値が低い情報である事は一目瞭然である。
 
なぜなら誰もが知っているため、供給が多い知識であり、
これくらい調べればすぐわかるので、需要もたいしてないからである。
 
しかし、
自分の住む『市区町村の長が、元犯罪者である。』という情報を掴んだ新聞記者の持つ情報は
同じ市区町村に住む住民にとっては先ほどの情報より価値が高いだろう。
 
なぜなら、知る人は少ないであろう情報の可能性も高く、
需要はおおいにあるからである。
 
ここでわかるのは、価値は人により変動することだ。
その情報に価値を感じるかどうかは、当事者の目的に関係しているかどうかが関わってくる。
 
つまり価値のある情報というのは人によって異なるのが通常なのだ。
 
 
 
・真実性 
もちろん情報には嘘と本当。事実と妄想の情報が存在する。
 
プロ野球選手がバッティングのコツを教えるのと、
マチュアの1年未満の野球経験者がバッティングのコツを教えるのとでは、
信憑性が欠けるのがどちらなのか明らかであるように、
情報の真実性は大きく異なるのだ。
 
昨今の情報社会では、これまで人々が一生を通じて知ったであろう情報の数十倍もの情報が
インターネットを通じて手に入るようになった。
もちろん情報が増えれば、先のような嘘の情報や、信憑性に欠ける情報も数多く目につく事になる。
そうなれば必然的に、本当の情報を見極める技術
すなわち情報リテラシーが重要視される事になっていく。
 
 
 
先の仮説から、以下の事がわかる
『情報は目的により利用価値も異なる』確定
『同じ情報も人により価値が異なる』確定
『情報は見極めが重要』
 
 
まず、目的よって、同じ情報でも価値が異なる。
野球の勝負に勝ちたい時に、今日の天気を聞くのと、バッティングの知識を聞くのとでは、価値が違うのは当然だ。
野球の勝負に勝ちたいと思う2人の少年がいたとしても、バッティングの知識を聞きたい少年もそうでない少年もいる。
同じ情報も人により価値が異なるのはこれも当然の事だ。 
 
 
次に、
 
情報との付き合い方を考えていく。
先の例から情報には以下の注意点がある
・価値
・真実性
 
情報を取得する上でまず大事のは
情報が真実である事だと思う。
 
なにか目的があるのなら、情報が真実でなければ混乱するだけであり、
正しい選択もままならないからだ。 
 
なのでまず真実の情報に触れる必要がある。
となれば情報に触れる前に、真実の情報であるという確信を持てる情報の取得方法を考えなければならない。
 
例えば誰かの発言(情報)を吟味する上で、
情報の真実性に関する問は以下のようなものが思いつく
・その発言者は信頼に値するか?(情報の出処)… 専門家とアマチュア 
                        右思想家と左思想家
                        ネット掲示板の女性観とモテる男の女性観
・発言に自由はあったか?(情報発信者の拘束)… 政治家の発言は責任がある以上嘘が多い 
                        嘘をつくと逆に損をする人物の発言
                                    拷問をした後の容疑者の発言と、単なる自白
誰かの発言でないのなら、
・自分の目で見た情報か?人から聞いた情報か?(情報の取得者)
・感性による情報か? 理性から知った情報か?(経験と理詰め)
・いつ発言したのか? 西暦何年ごろの科学者の発言か?
などさまざまな要素が思い浮かぶ
たくさんあってもごちゃごちゃしていて、実用的ではないので、
情報の真実性を確かめるために意識しておけば役にたつ事を簡潔に言うと、
5W1Hを確かめる事だ
 
これだけで生活に困らない程度の真実性を高めた情報を手にする事はできる。
 
 
ただここで注意したいのは、確定的に真実であると証明する事は、困難である事だ。
Aが犯罪を犯し容疑にかけられているとする。
その時Aの犯罪を立証するためには、
Aの主張とAの犯罪を裏付ける証拠が必要になる。 
 
Aに証拠をつきつけAがそれを認め、犯罪をしましたと供述し、刑が実行されたとしても
それが確定的に真実であるかどうかはやはりわからないのが実際である。
 
Aは嘘をついているかもしれない。
洗脳されているとしたら?
脳にじつは障害があるとしたら?
証拠は国が捏造したとしたら?
証拠は自作だとしたら?
 
その事実は本当に事実だったと証明できているのだろうか?
 
挙げればきりがないのである。
真実性は確定的ではなく、高める事しかできない。
 
だから、どれだけ情報を吟味していっても、
『確かだろう』という証明ができる情報はあっても
『確定的に真実』であると証明する情報はないのだ。
 
 
 
 
出た定義を覚えておく
 
ある程度仮説が固まったら定義を作ります。
どこかにメモしておくなどして、覚えておきましょう。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー0
 
 
自問自答の過程についてご紹介していきましたが、正直わかりづらいと思います。
人の思考の痕跡というのは、わかりづらいのが当然なのです。
 
私がこのブログで興味を持っていただきたいのは、私の見解や、定義についてではあり
ません。自問自答それ自体についてです。
 
世の偉人たちは、一致してこう説いています。
最も重要なのは、自分で思考し、答えを出す事なのだと。
 
 
 

情報とはなにか?『定義編』

 

 
ようこそ
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ご覧になった方々の
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私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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IT
情報化社会
昨今ではインターネットや通信技術の発展により、
情報という言葉を聞く事が多くなりました。
 
それではそもそも情報とはなんなのか?もう一度考えてみたいとも思います。
 

あなたにとって情報とはなんですか?

今回の定義はこちらです
情報とは?(記憶や記録の意味を除く)
知識・知らせ
 
情報の価値?
人・目的により変動する
 
利用価値が人により異なり、
目的によって情報の価値が異なるのは言うまでもなく当然である。
 
生活を安定させたい(目的)個人(人)にとって、
生活の豆知識(情報)は価値が高い。が
生活はどうでもよく、仕事に集中したい(目的)個人(人)にとって、
生活の豆知識(情報)は価値が低い。
 
 
 
 
 
 
昨今では、インターネット環境の普及から、膨大な情報を個人が取得する事が可能になり、
もちろんその中には嘘の情報や、今まで知らなかった世界の真実の情報もある。
また、ツイッターなどの普及により、筆者もしかりですが、とるにたらない人間の発言も
一般の人々の目に触れるようになった。
 
 
そうなってくればやはり、
真実の情報を取得する能力が必要になってくる。
 
真実性の高い情報を取得する方法?
発信者・出来事の、5W1Hを考える事
誰が・いつ・どこで・なにを・なぜ・どのように発信したのか?
また、出来事が起こっているのか?を、情報を取得した際に毎度吟味する事。
 
これだけで真実性の高い情報を取得する事が可能になるといえる。
今回はわざわざ言われるまでもない、当然の定義でした。
 
ーーーーーーーーーーーーーー
そんな気もするが、違う気もする。
とお思いでしょうか?
 
大丈夫です。なぜならこれは、
"私"の『情報』に対する"定義"だからです。
 
あなたが納得できなければ、
あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"
が作成できるはずです。
(私のブログの読み方 参照)
 
自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?
 
次回、定義の考察編をご覧ください
 

喜び・悲しみとはなにか?『応用編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)】
喜びと幸せの違い?
【幸せ…充足した状態 
 喜び…充填した時に起こる反応】

 

ーーーーーーー

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目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《悩み編》

問 家族が亡くなったのに、悲しいという気持ちがない私はおかしいのか?
 
定義に当てはめて考えると、家族が亡くなった事に喪失感を覚えない。
という事になる。
 
となると、当然おかしいとはいえない。
むしろ、家族が亡くなって全員が全員悲しいという感情を抱くほうが不自然である。
 
喪失感があるということは、元々あった。という前提がある。
となると、家族の定義で述べたけれども、
自身にとっての家族の定義を自問自答により導き出し、何を失ったのか?
を考えれば自ずとこの疑問の答えはでる。
 
 
筆者は身内が亡くなった時、悲しい気持ちを抱かない人間の一人であり、この疑問に対する筆者の答えはこうだった。
 
 
家族は私にとって『繋がりや、愛』であって、その物質ではない。
家族が与えてくれた愛こそが家族であり、
家族それ自体は筆者にとって家族ではない。
 
だからその、家族を失ったとしても、私の中でその『繋がり・愛の記憶』は喪失していない。
 
簡単に言えば、死んでない。
私の中に生き続けている
 
というのが、筆者の考えだということであり、悲しみを抱くことがない。
 
むしろ筆者は、家族からもらった愛の証(生前に貰い受けた形見)などを喪失した時に深く悲しみを覚えるタイプであるのだとわかる。
記憶はなくならないが、
証は物質である以上なくなるからだ。
 
 
筆者のような考えではなくとも、例えば
人が死んでもその物質は再構成され、別の物質となるだけであり、その人は自らの体の一部となるかもしれないし、というより、人間は皆同じ物質で作られているのだから、死んでも生きていても、同じである。
 
という考え方を持っていたとすれば、
その人もまた、人の死を悲しみはしないだろうと思う。
死のうが死ぬまいが、同じ物だからだ。
 
 
結局、悲しみというのは対象もその幅も、人により異なるものなのだ。
 
 
 
 
問 プレゼントを貰ったが素直に喜べない。
 
 
これは悩みと言っていいのかどうかわからないが、
本人がわかっているはずである。
 
喜びというのはあなたの欲求の達成である。
そのため喜べないのは、あなたが欲しい事柄ではなかったからに他ならない。
 
喜べないものを、喜べというのが間違いである。
 
 
例えば世間一般で、プロポーズは嬉しいものだとされている。
男性陣もプロポーズはされて嬉しいものだと思っているものが多い。
 
告白についてもそうだ。『好きだ』と言われて嬉しいというのが通常だと
思っているものが多い。
 
 
また仕事面においては、
人は褒められるのが嬉しい。だからおだてておけば良い。といったものもいる。
 
 
 
もちろんこれら全て、勘違いである。
プロポーズされて嬉しくない人など沢山いるし、
好きだと言われて不快に思う人も多い。
褒められると馬鹿にされているのかと思うものもいる。
喜ぶのが当然だ。というほうがおかしいのだ。
 
 
 
 

《名言編》

(名言編は定義を通じ名言を筆者独自に解釈する。)
 
 
悲しみは知識である。多くを知るものは、恐ろしき真実を深く嘆かざるを得ない。知識の木は生命の木でないから。ブレーズパスカル
 
悲しみとは?【知識】と言っている。
私の定義は、悲しみとは反応の事であり、全く定義が異なる事がわかる。
 
私の定義で解釈するために屈折させて無理やりねじ込むとすれば、
悲しみの原因は知識にある。といえば筋が通る。
 
知識とは見ている世界を広げる事に等しい。
であれば、世界が広がるにつれ、自らが置かれている状況の虚しさに気づく。
たくさんのものを喪失したのち、自分がここにいるのだとわかる。
知らなければ今ここで喜びに満ちる事もできる。
しかし、知れば今ここの喜びなど到底およばない悲しみに気づく。
 
と、浅薄だが言葉の意味を解釈する事もできる。
 
 
人は肯定において喜びを感じ、否定において悲しみを感ずる。しかし真実の喜びというものは深い悲しみの経験のないもには味わう事は出来ない。柳田謙十郎 「弁証法入門」
 
これについても既に述べた。
主に人は、肯定に喜び、否定に悲しみを感ずる。
というのは欲求の尊厳欲求の段階であり、人間共通である。
そのため、皆に共通すると言って間違いではないと私も思う。
 
これは私のブログで再々言ってきた、繋がり(存在の肯定)を普遍的に求める。という事と
同じ事を言っている。
 
 
真実の喜びというのを私は味わった事がない。なぜなら、
日本という恵まれた国にうまれ、愛する両親や兄弟の元に育ち、
何不自由なく今の今まで生きてきたからだ。
 
私の人生に苦しみなどなかったと言っていい。そんな私には真実の喜びがわからない。
想像を絶する喜びなのだろうという事くらいはわかる。
 
 
喜びを人に分かつと喜びは2倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる。ティートゲ『ウラーニア』
一人の喜びは決して一人のみに限られたものではない室生犀星
 
これはシェークスピアの小説にも出てくる言葉である。
悲しみは人と分かち合う事ができるらしい。
 
私にはこれがわからない。
喪失感を人と分け合うとは何なのだろうか?
高揚感を人に分かつと2倍になるとは何なのだろうか?
 
私から言わせると、
喪失感を感じながら人にその喪失感を話すと、
別の喜び(肯定や、居場所欲求)があった事によって、悲しみが和らぐ。
 
一方
何らかの欲求の達成があった場合に、他者にその喜びを共有させた事で、
別の喜び(肯定や、居場所欲求、名誉欲求)が満たされ、喜びが増す。
 
といった形にはなるが、
分かち合う事ができるとはまではいえない。
やはり私が未熟でよく分からない名言である。
 
 
 
いかなる場合にても、喜び多ければ大なるほど、それに先立つ苦しみもまた大なり。アウグスティヌス『告白』
苦労こそ人生の姿である。我々なお最後の歓びと慰めは、苦労した過去の追憶に他ならない。ミュッセ
山の頂にたつ喜びは、もしそこへ至るまでに越えるべき暗い谷間が一つもなければ、半減されるでしょうヘレンケラー
 
これは考察編で述べた。
枯渇した状態で水を飲むのと、
散々コーラを飲んでお腹いっぱいの状態で、水を飲むのとの違いである。
 
 
快楽より悲しみが起こり、快楽より恐れが起こる。快楽より解脱したる人間にとりては、もはや悲しみも恐れもなし。お釈迦様 
 
私の定義に要約すると、
満足状態(幸せ)になるから悲しみがある。 
喜び=快楽から悲しみが起こる。悲しみが嫌だというのなら、
 
そもそも、欲求に従う日々をやめなさい。
幸福を求めるのを辞めなさい。
幸福に見向きもしない人間になれば、そもそも悲しみなどないのだ。
 
 
となる。簡単に言えば、深い悲しみという不幸は快楽から生まれる。だから、そもそも欲求に支配されるな。という事だろうか。
人は生きていると、基本皆自身にとって楽で、簡単で、欲しいものが手に入る方向に向かう。だがお釈迦様は、欲しいものに見向きもせず、楽をせず、険しい道をいくように説いた人だという事だろう。
 
 
 
参照
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『喜び・悲しみ』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの、
数学の定理のようなものであるのです。
 
のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。
 
 

喜び・悲しみとはなにか?『考察編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
ーーーーーーー

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今回の定義
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)】
喜びと幸せの違い?
【幸せ…充足した状態 
 喜び…充填した時に起こる反応】

 

 ーーーーーーー

私は以前の記事でこのように定義を作成していきましたが、
『考察編』では、定義作成までの流れをご紹介します。
 
お悩みの方などは、
『応用編』をご覧ください。
 
(『考察編』は、実際に
『自問自答』をご自身で行っていただき、
テーマの本質をあぶりだす流れを体験していただく事を目的としていますので、
私の自問自答につきましては、
参考としてご覧ください。)
 
自問自答の方法については、
私のブログの読み方 をご参考ください。
ーーーーーーーーーーーーーー
❶辞書等、世の中の定義を集める
なんとなく世の中の定義が掴めたら次に進みます。
 
喜びとは?
 よろこぶこと。うれしく思うこと。⇔悲しみ
 祝いごと。おめでた。慶事。
 祝うこと。祝いの言葉。
 与えられた慶事や好意に対するお礼。また、その謝辞。
 
 
悲しみとは?
 1 悲しむこと。悲しい気持ちや心。悲嘆。
 2 (愛しみ)いとおしむこと。情愛。
 

 

 
 辞書では、なんと
 悲しむ事とは、悲しい事である。
 喜ぶ事とは、喜ぶ事である。
 という説明がなされている。
 感情を言葉で説明しようと思っても、難しいといったところなのだろうか? 
とりあえず、ある程度世の中の定義がわかったら、次に進む。
 
 
❷言葉の使用例等を集める
 
苦労の分喜びが大きい
受賞の喜び
喜びが続く
悲しみとは喪失感
悲しみとは虚無感 やりきれない気持ち 虚しさ
失恋の悲しみ
失敗による悲しみ
裏切りによる悲しみ
軽蔑による悲しみ
嫌われる事による悲しみ
他者との比較による悲しみ
死者に対する悲しみ
悲しみに暮れる
悲しみの色を浮かべる
… 
 
まとめる 
悲しみ、喜びは続くということは、止む
悲しみ=喪失 虚無 やりきれない虚しさ等、『心が空っぽ』という表現と繋がる印象を受ける。
喜び=満たされ、嬉しいという感情、ウキウキするような感情が起き、『心が満たされる』という
表現と繋がる印象を受ける。 
世間一般で嫌な事=悲しみ
いい事、ありがたいこと=喜び
 
世間のテーマへの解釈や、
偉人達の解釈がなんとなく掴めたら次に進みます。
 
違和感から仮説を立てていきます。
違和感がなければ、定義確定です。
違和感こそが、あなたが見ている世界の対象物の本質への鍵です。)
ん?そんな使い方するか?
と感じたと言う事です。
そうして、 次の手順に進みます。
 
 
❸仮説を立ててみて、一つ一つ自問自答し確定させていく。
 
仮説『悲しい・嬉しい。といった、感情の一つ』確定
 
…省略…
 
辞書で説明できないのは、悲しみや喜びというのは、その言葉に意味があるのではなく、
反応それ自体だからだ。
 
『椅子』といえばどういったものか説明のしようがあるが、
『喜び』といった場合、どんな表情で、どんな反応が体に起こり、どんな気持ち。などというのは辞書では説明しづらい。ある種学問じみてくる。
 
 
この仮説は正しいように思う。
正しい。しっくりくる。と思った時点で仮説を確定してok
(確定したら、仮説の横に確定と書くとわかりやすいです。)
 
 
 
私の定義では、
『感情=反応』(怒りの定義参照)であるため、喜びとは反応であるという事になる。
 
 
 
反応であると定義づけたのなら、
①なにが原因で反応し
②どんな結果を生むのか? 
がわかれば、喜びや悲しみの全容があらわになると判断できる。 
 
 
仮説『①原因は喪失と充填』△
 
正しいだろうか?
①例を出す。(実際に世の中の事案や定義にあてはめていく)
喜び…説明は省略するが、主に満たされた時に起こる感情であると容易に想像できる。その前提を覆す必要はないと感じたので省略した。 
悲しみ…主に喜びの対義であると辞書にある。そのため喪失による感情だと判断した。このあたりについては深く考えていない。
思いついた喜びと悲しみの関係性は、このような関係性という事だ。
 
 
②反対意見をだす。(批判)
物を失った時喜ぶ事はあるだろうか?と問えば、もちろんある。よって当てはまらないはずだ。
失いたかった物を失った時や、捨てたいものを捨てられた時、
嬉しいではないか。
 
悲しみもそうだ。
なにかを得た時悲しい事はあるだろうか?と問えば、もちろんある。
愛してない異性を抱いた時などがそうだろう。
これも当てはまらない筈だ。
 
③第三の意見を出す。
例えば喪失の対象物について、失いたい時があり得る。
しかし、その時でさえ失いたいと願った心は満たされている。
つまり、充足の対象は内面であり、外面ではない。と仮定すれば納得がいく。外面の物質的充足と、感情において、内面の充足は異なる事もる。という事だ。
 
内面が充足していれば人は喜ぶ。
外面が貧しく、大切な物を失い、何も後に残っていないとしてもだ。
 
仮説『原因は内面の充填と喪失』
 
ここからこのようなことも導き出せる。
『なんらかの悲しみと喜びを図る基準となるような、枠が存在する。』
充填と喪失があり、
その枠が満たされると満足し、
枠が枯渇すると悲しみが続く。
 
さらにその枠は人ごとに異なるのだろう。
でなければ、人ごとに悲しみが異なる理由が説明できない。
 
このような図が思いつく
 
【喜び  充填 ⇆ 喪失 悲しみ】

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バッテリーの画像で例えると、
私たちが心と表現するこの枠組みの中の”電気”となるなにかが
満たされると喜び・喪失すると悲しみが起こるように人間は作られているのではないだろうか。と判断した
 
このバッテリーの”電気”はなんだろうか?
 
仮説『電気=満足度』確定
 
心にある枠を満たす"なにか"が確かにある。
 
これを”欲求”と仮定してみよう。
するとこれは古い記事だが、幸福の定義と同じだと仮定したということだ。
私の定義では、喜びと幸せは同じ意味だという事になる。
 
ご覧になってはいない方のために、幸福の定義を引っ張ってきた。
幸せとは…【満足】(欲求の達成時)
幸福とは…【継続的満足】(継続的欲求の達成)
欲求…食・性等の生理的欲求 安全欲求 居場所欲求 承認欲求 自己実現
(マズロー欲求から参照)
 
喜び…【満足】(欲求の達成時)
とするなら同じだ。という事だ。
 
②反対意見をだす。
喜びは感情であるのに対し、幸せは感情ではないはずだ。
…省略…
幸せとは状態をさすのではないか?
 
③第三の意見を出す。
喜びとは、幸せや充実を示す感情
悲しみとは、不幸せや虚無を示す感情であり、
幸せとは喜び(充填)により、枠が満たされた状態をいう。
つまりこういう事だ。
欲求を達成した→喜びの反応○○欲求が満ち足りた→幸せ状態】
 
…省略…
ある程度、確証を得たので、この仮説は確定する。
 
 
欲求のバッテリーが心にはある。
その種類は欲求の数存在し、
マズローの説(下記)を採用するならバッテリーは連なっており
生理的→安全→社会的→尊厳→自己実現 という枠が存在し、準々に満たされていく。
 
個々のバッテリーの電気については個々でそれぞれ減少しはするが、定期的に満たされる状態=そのレベルでの幸福状態を達成していく事で次の段階へとバッテリーへと電気が充填されていく。
 
最小に満たしていくバッテリーほど、人間にとって最も大事な欲求と言える。
生理的欲求などは、自分の生命を維持するために、体に緊張状態をもたらすための機能ともいえるからだ 。
 
 
定義を作成していくにあたって、私が一方的に一旦取り入れる事にしたのが、このマズロー欲求5段階説である。
欲求には種類があり、段階を得て、人は異なる欲求を求めていく、というものなのだが、
欲求に種類があるだろうというのは実感として私自身にあり、ただそれが何種類くらいに分けられるのか、
一つ一つデータをとっていては時間が勿体無いので、一方的に妙に納得いった事からこの人の説を採用した。
 
もちろん納得いかない人はここで好き好きに心理学者等の欲求に対する論を取り入れてみていいと思う。
 
 
仮説『悲しみ・喜びは共通しない。確定
…省略…
 
充足感の基準も、
喪失感の基準も人により異なるためだ。
当たり前である。
 
 
例えば誕生日プレゼントを貰ったら人は必ず喜ぶわけではない。悲しくなる人さえいる。
 
では、悲しくなる人の例だと、その理由はどんなものだろう?『誕生日を迎えたくない。いつまでも若くいたい。』と考える人にとって誕生日は若さを失う日(喪失)であり、それに伴う内面の喪失感がプレゼントによる充足感(充填)を上回れば、なんだか悲しい誕生日となるわけだ。
 
また、『欲しい物ではない。』と考える人にとって、
欲求は充填されていないのに、
かわりに自分の行動を制限(喜ぶフリ)される事によって、
むしろプレゼントをもらう事が不快にすらなりうる。
 
とまぁこんなのも当然の話だ。
 
②反対意見
 
プレゼントは好意で渡すものだ。
喜びを感じるのは皆同じ
家族が死んで悲しいのだって皆同じだ。
 
プレゼントをもらって喜ばないのはおかしい。
家族が死んで悲しくないのもおかしい。
喜びや悲しみは共通している部分だってあるはずだ。
違うと言い切るのは違和感がある。
慣習や欲求が決まっている以上ほぼ共通する喜びがある。
 
③第三の意見を出す。
 
欲求については人間全員が共通すると考えると、例えば、承認されたい(繋がり)、お腹が空いた、眠たい、社会的地位が欲しい。などは共通する事になる。(程度は異なる)
 
社会が形成されている以上通常欲しがる物や、感じている事など
共通する部分がある。
 
例えば子供が欲しい。持ち家が欲しい。
車が欲しい。財布が欲しい。などだ。
 
これらを授かれば誰だって嬉しいはずだ!!
と思う人が大半だろう。
 
しかし少し考えればわかる。
持ち家は邪魔だと思う人
車は運転できない人
財布は持たない主義の人
 
などからすればプレゼントされても喜ばしいとは思わない。
欲求が共通するにせよその欲求を満たす対象物は、その人の欲求のバランスによって異なるため、共通するとは言えないわけだ。
 
年末にお歳暮でハムを送る人等がいるのは、
好みによってあまり分かれる事がなく無難だからだろう。
しかしそれでもやはり、ハムが嫌いな人や食べられない人だっているのは当然である。
 
 
仮説『喜びの感情は枯渇しているほど大きくなる』確定
 
…省略… 
 
運動した後の水と
コーラをお腹いっぱい飲んだ時の水の
美味しさの違いを考えれば一目瞭然である。
 
喜びの枯渇とはすなわち、不幸である。
不幸をしるものほど、本当の喜びという感情と高まりを知るとも言える。
悲しみを知る。という言葉があるがそうではない。
不幸を知る。が私の定義では正しい表現になる。
 
 
仮説『喜びや悲しみはコントロールできる』確定
 
…省略…
 
怒りと同じように、
自身に起こる体の反応なのだと考えると、
当然導き出す事ができる。
反応なのであれば、原因があるからだ。
その原因を探れば、悲しむ事も、喜ぶ事も可能なのだ。
 
 
 
仮説『突発的・継続的なものがある』
 
悲しみが継続する。
悲しみが長い間続く
と世間では表現するが、私の定義では、
それは不幸である。悲しみとは感情であり、
状態は満足ではない状態。不幸状態だからである。
 
悲しみやなにか出来事によって不幸となったなら、
あなたはまた欲求を満たす旅を始めなければ一生不幸のままである。
 
 
まとめると、
欲求とは自己への要求であり、
欠乏や体の維持のためか、体が反応し、緊張する事で自らを行動へと駆り立てるような機能を有しており、その欲求の達成があると喜びという反応が起こり、さらにその量が満ち足りた時、幸福感を得る。
反対に欲求を満たしていたなんらかの物質や事柄を失うと、悲しみという感情を抱き、不幸状態に陥り、
欲求不満となる。という事だ。
 
感情というのはやはり、
自分自身の体や精神の何らかの防御の機能であり、
自然と自分の社会的な立場・生理的な状態等、満たす事を求めるように作られているのだととる事ができる。
 
出た定義を覚えておく
 
ある程度仮説が固まったら定義を作ります。
どこかにメモしておくなどして、覚えておきましょう。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー0
 
 
自問自答の過程についてご紹介していきましたが、正直わかりづらいと思います。
人の思考の痕跡というのは、わかりづらいのが当然なのです。
 
私がこのブログで興味を持っていただきたいのは、私の見解や、定義についてではあり
ません。自問自答それ自体についてです。
 
世の偉人たちは、一致してこう説いています。
最も重要なのは、自分で思考し、答えを出す事なのだと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

喜び・悲しみとはなにか?『定義編』

 
ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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人生には
なんだか心にぽっかりと穴が空いたような日があれば、
充実して喜びはが絶えない日もありますね。
 
ではそもそも喜ぶ。悲しむ。とはなんでしょうか?
 
あなたにとって
喜び・悲しみとはなんですか?
 
私の定義をご紹介します。
 
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)
 
欲求の種類については学がなく、浮かばなかったので、マズローの5段階説を参照した。
・(自己実現 承認  社会 安全 生理的)欲求
 
心、精神には、欲求のバッテリーのようなものが存在するのだと仮説を立てた。さらにそのバッテリーは欲求の段階によって、その”電気”が異なり、喪失した時に悲しみが。充填した時に喜びの反応が起こると定義した。
 
幸せと、喜びの違い?
幸せ=充足した状態
   喜び=充填時に起こる反応
 
喜びは100%幸福基準が満たされていなくても起こる。欲求を達成するたびに起こり、
さらに、枯渇している時ほどその喜びは大きくなる。欲求不満であればあるほど、突如満たされた時、喜びは大きいという事だ。
(長くなるので応用編に続く)
 
 
私の定義では、
感情とは=反応であり、
喜びと悲しみとは、
コントロールできるもの
という事になる。
 
幸せの定義で紹介したが、
欲求の枠組みは内面の信念を変化させる事や習慣によって大きくも小さくもする事ができ、常時悲しみに関係する、喪失感、虚無感を感じる事も、常時喜びに関係する、満足感を感じる事も可能である。
 
喜びの原因に影響する事も、
喜びの原因それ自体を変える事もできるからだ。
 
 
そして当然だが、
喜びと悲しみは
欲求は共通する。
 欲求を満たす対象物は共通しない。人により異なる
 
欲求の種類は皆同じ(お腹が空く 眠い等)だが、その度合いが異なり、
さらに欲求のバランスによっても、欲しい対象は異なるはずだ。
 
例)眠たいけど寝ない人がいる。
眠たいという欲求は皆同じだが、その人の喜びは仕事(尊厳・居場所)の欲求の達成にある段階なのかもしれない。だから眠たいから寝るという欲求は既に満たした。というか満たす事のできる環境を築いている状態といえる。
 
 
 
そんな気もするが、違う気もする。
とお思いでしょうか?
 
大丈夫です。なぜならこれは、
"私"の『喜び・悲しみ』に対する"定義"だからです。
 
あなたが納得できなければ、
あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"
が作成できるはずです。
(私のブログの読み方 参照)
 
自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?
 

 

次回、定義の応用編をご覧ください

 


 

家族となにか?『応用編』

ようこそ
 
 このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
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などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
本来の家族の定義 
【一般的に核家族をさし、家族自体に本来意味はない】
親族とは?
…省略…

 

 

ーーーーーーー
目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《悩み編》

 
家族は支え合うのが当然か?
 
当然ではない。
 
家族は自分の都合の良い道具とみなす人間がこの世にはたくさん存在する。
家族の存在意義に決まりはないのだから。
 
支え合うのが当然と思う人は、良い人で、恵まれた人なのだろうという印象がある。
素敵な人だ。このような人ばかりならこの世界は素晴らしい世界なのだろう。
そんな人ばかりの家族はさぞ、幸福だろう。
 
反面このような人達は、都合のいいように利用されやすい人にも見える。テレビの感動番組や、広告の宣伝文句に騙されてしまう人などに多いようにも思う。そんな危うさがある。
 
だが、それを考慮しても
愛ある家族の素晴らしさには光るものがある
。話が逸れてしまったので、次の問に進む。
 
 
家族と縁を切りたい
 
家族との関係は切れない。無理だ。
切れないから家族というのだから。
 
親から見た配偶者としての家族なら離婚すれば良いが、親子関係は切れない。
 
関係を切れるなら仲間である。家族ではない。事実上の縁の切り方の方法はあるが、それは今は述べない。
 
 
家族が嫌い。私はおかしいのか?
 
私の定義から考えれば、
おかしいわけがない。
家族は良いものにも、悪いものにもなる。
捨てられない仲間であり、鎖のようなものでもある。よって、そもそもこの悩みの前提がおかしい。
 
家族が好きなのは当然なのだろうか?
家族が好きなのは、家族がたまたま自分にあっていたからにすぎないはずだ。
嫌いな家族も、恨んでいる家族がいてもおかしくはない。
 
問題なのは、恨んでいても嫌っていても
血縁は切れない事だ。さらに家族を捨てられない。この国では法律で、扶養する義務さえある。
家庭の問題に国が口を出す。故に現段階で個人は、どんな家族との縁も事実上しか切ることができない。
 
だから、通常の人は家族だけは支え合い協力する道を選ぶ。自身にとってもメリットが大きいし、誰しもが求める繋がりも手に入るからだ。
 
しかし、このような鎖で繋がれた関係なのにも関わらず、家族を蔑ろにするようなタイプの人間がよくいるのも確かだ。
 
そうなると、支えようとする者と、支えられようとする者。つまり、一方的に苦労させる側と、苦労させられる側に別れるなどして、家族のトラブルが生まれたりする。
 
こういった空気の読めない者を、嫌わず好きになれ。というのは酷ではないかと思う。
 
 
 
不倫している家族(主に親)がいて辛い。
 
 
一般的にこのような悩みを持つ子供は、かわいそうにみえるらしい。
が、私から見ると、以下に述べるタイプの子供の場合は、滑稽な親子である。
親と同じレベルの子供である。
 
 
この問題には一見複雑に見えるような問題が絡んでいる事が多い。
(辛いとはそもそも、
思い通りにいかない事を言う。苦しいという意味に近い。)
 
 
よくあるパターンを書いていこう。
 
よくあるパターンには、
①隠す事による辛さ
②親に同情する事による辛さ
等があるが、①隠す事による辛さを紹介する。その他は今後機会があれば述べたい。
 
 
不倫とは結婚契約の債務不履行である。
つまり、不倫とは裏切りである。
 
ある日子供は親の不倫に気づいた。
だが、子供はそれを配偶者に伝えられない。なぜならそんな家族だとしても、全員同じ屋根の下で暮らしたいという気持ちがあったりするものだからだ。
よって次のような順をたどって不倫する親に苦しむ子供は生まれる。
 
 
①当事者一方の裏切り(不倫)があると、
   通常は当事者がそれを知れば、
   債務不履行によって、
   相手は離婚 又 慰謝料請求
   という選択ができる事になる。
②だが子供は契約を破棄させたくはないし、家族が揉める姿を見たくない。
③以上の理由から不倫の事実を隠蔽するという選択をする。
④内心 裏切りを伝えたいが、
   外面  裏切りを隠す
⑤内心と外面の不一致から、子供には、
罪悪感というものが発生する。
人は自分の罪悪感に不快を感じるため、正当化する術を探し始める。
⑥この隠蔽の原因は元々自分にはない。
   その親のせいで罪を背負ったと思い始めるのがよくあるパターン
⑦やがて、その親を恨み始める。
   不倫する親のせいで辛い。と言い始める。
  (この場合の"辛い"=罪悪感
内心と行動が思い通り一致しないという事)
 
もし子供がこのようなパターンで、親に憎しみや怒りを抱いているのならば、落ち着いて考えるべきなのだ。
怒りの定義で述べたが、怒りとは
自分に媚を売る感情である。
そのため、その親に怒る子供は不倫した親を一方的に責めてしまう。
 
子供は自分から同じ罪を背負ったというのに。だ。
 
不倫をした親の罪が『裏切り』にあるという自分ルールを、子供が持っているのなら、
それを"隠蔽"した子供も共犯のはずなのである。
 
にもかかわらず、罪悪感に対する不快に感情が反応し、怒り、自分を擁護するに至っているというわけだ。
 
 
このパターンにおいて、
親が不倫をして辛い原因は、実は悩んでいる
子供自身が、『裏切りはしてはならない』という自分ルールを自分で破った事にあるというが通常である。
 
親の問題ではなく、自分の信念に反する行いを、損得感情によって犯したから起こっている、子供自身の問題なのだ。
子供はそれが悪いとわかっていながら、しているのと同じ事であり、親を責める資格はない。
どちらも同じようなレベルである。
『元々の原因を作ったのは親のほうだ!』と喚いても、同罪かつ同類蛙の子は蛙である。
 
 
 
つらつらと、王道パターンを述べたが、
隠す事で悩みを抱えているのなら、解決策は簡単である。
 
①信念と損得の優先順位を決める
②行動としては、
    信念優先なら告げ口すればよい。
    損得優先なら隠し通せばよい。
③心持ちとしては、
   信念優先の生き方をしたいなら、
   リスクを恐れない覚悟を決める。
   意地をはって生きると決める。
 
   損得優先の生き方をするなら、
   いっそ信念ごと変える(開き直る)
   悪い事を悪いと思わないようにすれば良い
 
   (先の例なら、『裏切る事は時には仕方ない』という信念に変える等)となる。
世間では、開き直る事を皮肉って、正当化する。というが、べつに悪い事ではない。誰だってやっている事だ。
心を開いて辛くない自分ルールに作り直す事は、自分を守る事でもあるからだ。とはいっても、常に開き開き直る生き方は、
基本的に小物であり、クズの生き方である。自分を省みて、偉そうに上から目線で人を責めない事をついでにお願いしたいものである。)
 
 
 
 

《名言編》

(名言編は、名言ひとつひとつについての、私独自の解釈を定義に沿って述べたものであるので、参考程度にご覧ください。)
 
人はそれぞれの家族を持ち、それぞれが法を持つ
 
私の定義で言っていることそのままである。
ジョン・カルボニエが誰かは知らないが、驚いた。
家族も法も『立場により無数にある』という事だ。
 
 
家庭とは、人がありのままを示す事ができる場所である。
 
これは私の定義にあてると、
家庭というのは『繋がり・愛』を得られる場所。という事になる。
 
これは、そうとも言い切れない。
家の中ですら本当の自分をださなければ、それは愛のない関係。繋がりとは違う関係であるからだ。
 
 
 
今回、重要な名言はこれらである。
 
幸せとは暖かく、愛に溢れた大家族を持つ事である。 
愛は家庭に住まうものなんですよ。子供を愛し、家庭を愛していれば、何を持っていなくても幸せになれるのです。
 
私の定義では、幸せとは通常は欲求の達成であり、
繋がり=愛というのは、私の定義では、普遍的な人間の欲求の一つであるため、愛のある家庭であれば、もうそれで皆幸せだろう。
継続的に繋がりの欲求を達成できるし、繋がりの欲求は人にとってポイントが高い。
愛のある家族を知る者からすれば、それは説明するまでもないだろう。
 
ここでのポイントは、愛に溢れた家族があるという事は、
当然といえば当然だが、愛のない最低な家族も存在する事だ。
 
例えば、
全員にとって家族の存在意義が『支えあい、助けあいや絆』にあるのなら
それだけでその家族は幸福になり得るが、
全員また一部にとってその存在意義が『邪魔、鎖、私利私欲ための道具』となるのなら
トラブルや不幸を無限に生み始める危険がある存在でもある。
 
愛のある家族を作りたいのなら、
理念の明確化と、その共有。つまり多少の努力が必要となるのだ。
家族というのは実際、
支え合いや、愛のある絶対的な存在ではなく、じつに不安定な存在と言えると思う。
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このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『家族』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの
数学の定理のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。