自問自答のすすめ

『人生が変わる。自分を変える。』

喜び・悲しみとはなにか?『応用編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
ーーーーーーー
今回の定義
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)】
喜びと幸せの違い?
【幸せ…充足した状態 
 喜び…充填した時に起こる反応】

 

ーーーーーーー

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目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《悩み編》

問 家族が亡くなったのに、悲しいという気持ちがない私はおかしいのか?
 
定義に当てはめて考えると、家族が亡くなった事に喪失感を覚えない。
という事になる。
 
となると、当然おかしいとはいえない。
むしろ、家族が亡くなって全員が全員悲しいという感情を抱くほうが不自然である。
 
喪失感があるということは、元々あった。という前提がある。
となると、家族の定義で述べたけれども、
自身にとっての家族の定義を自問自答により導き出し、何を失ったのか?
を考えれば自ずとこの疑問の答えはでる。
 
 
筆者は身内が亡くなった時、悲しい気持ちを抱かない人間の一人であり、この疑問に対する筆者の答えはこうだった。
 
 
家族は私にとって『繋がりや、愛』であって、その物質ではない。
家族が与えてくれた愛こそが家族であり、
家族それ自体は筆者にとって家族ではない。
 
だからその、家族を失ったとしても、私の中でその『繋がり・愛の記憶』は喪失していない。
 
簡単に言えば、死んでない。
私の中に生き続けている
 
というのが、筆者の考えだということであり、悲しみを抱くことがない。
 
むしろ筆者は、家族からもらった愛の証(生前に貰い受けた形見)などを喪失した時に深く悲しみを覚えるタイプであるのだとわかる。
記憶はなくならないが、
証は物質である以上なくなるからだ。
 
 
筆者のような考えではなくとも、例えば
人が死んでもその物質は再構成され、別の物質となるだけであり、その人は自らの体の一部となるかもしれないし、というより、人間は皆同じ物質で作られているのだから、死んでも生きていても、同じである。
 
という考え方を持っていたとすれば、
その人もまた、人の死を悲しみはしないだろうと思う。
死のうが死ぬまいが、同じ物だからだ。
 
 
結局、悲しみというのは対象もその幅も、人により異なるものなのだ。
 
 
 
 
問 プレゼントを貰ったが素直に喜べない。
 
 
これは悩みと言っていいのかどうかわからないが、
本人がわかっているはずである。
 
喜びというのはあなたの欲求の達成である。
そのため喜べないのは、あなたが欲しい事柄ではなかったからに他ならない。
 
喜べないものを、喜べというのが間違いである。
 
 
例えば世間一般で、プロポーズは嬉しいものだとされている。
男性陣もプロポーズはされて嬉しいものだと思っているものが多い。
 
告白についてもそうだ。『好きだ』と言われて嬉しいというのが通常だと
思っているものが多い。
 
 
また仕事面においては、
人は褒められるのが嬉しい。だからおだてておけば良い。といったものもいる。
 
 
 
もちろんこれら全て、勘違いである。
プロポーズされて嬉しくない人など沢山いるし、
好きだと言われて不快に思う人も多い。
褒められると馬鹿にされているのかと思うものもいる。
喜ぶのが当然だ。というほうがおかしいのだ。
 
 
 
 

《名言編》

(名言編は定義を通じ名言を筆者独自に解釈する。)
 
 
悲しみは知識である。多くを知るものは、恐ろしき真実を深く嘆かざるを得ない。知識の木は生命の木でないから。ブレーズパスカル
 
悲しみとは?【知識】と言っている。
私の定義は、悲しみとは反応の事であり、全く定義が異なる事がわかる。
 
私の定義で解釈するために屈折させて無理やりねじ込むとすれば、
悲しみの原因は知識にある。といえば筋が通る。
 
知識とは見ている世界を広げる事に等しい。
であれば、世界が広がるにつれ、自らが置かれている状況の虚しさに気づく。
たくさんのものを喪失したのち、自分がここにいるのだとわかる。
知らなければ今ここで喜びに満ちる事もできる。
しかし、知れば今ここの喜びなど到底およばない悲しみに気づく。
 
と、浅薄だが言葉の意味を解釈する事もできる。
 
 
人は肯定において喜びを感じ、否定において悲しみを感ずる。しかし真実の喜びというものは深い悲しみの経験のないもには味わう事は出来ない。柳田謙十郎 「弁証法入門」
 
これについても既に述べた。
主に人は、肯定に喜び、否定に悲しみを感ずる。
というのは欲求の尊厳欲求の段階であり、人間共通である。
そのため、皆に共通すると言って間違いではないと私も思う。
 
これは私のブログで再々言ってきた、繋がり(存在の肯定)を普遍的に求める。という事と
同じ事を言っている。
 
 
真実の喜びというのを私は味わった事がない。なぜなら、
日本という恵まれた国にうまれ、愛する両親や兄弟の元に育ち、
何不自由なく今の今まで生きてきたからだ。
 
私の人生に苦しみなどなかったと言っていい。そんな私には真実の喜びがわからない。
想像を絶する喜びなのだろうという事くらいはわかる。
 
 
喜びを人に分かつと喜びは2倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる。ティートゲ『ウラーニア』
一人の喜びは決して一人のみに限られたものではない室生犀星
 
これはシェークスピアの小説にも出てくる言葉である。
悲しみは人と分かち合う事ができるらしい。
 
私にはこれがわからない。
喪失感を人と分け合うとは何なのだろうか?
高揚感を人に分かつと2倍になるとは何なのだろうか?
 
私から言わせると、
喪失感を感じながら人にその喪失感を話すと、
別の喜び(肯定や、居場所欲求)があった事によって、悲しみが和らぐ。
 
一方
何らかの欲求の達成があった場合に、他者にその喜びを共有させた事で、
別の喜び(肯定や、居場所欲求、名誉欲求)が満たされ、喜びが増す。
 
といった形にはなるが、
分かち合う事ができるとはまではいえない。
やはり私が未熟でよく分からない名言である。
 
 
 
いかなる場合にても、喜び多ければ大なるほど、それに先立つ苦しみもまた大なり。アウグスティヌス『告白』
苦労こそ人生の姿である。我々なお最後の歓びと慰めは、苦労した過去の追憶に他ならない。ミュッセ
山の頂にたつ喜びは、もしそこへ至るまでに越えるべき暗い谷間が一つもなければ、半減されるでしょうヘレンケラー
 
これは考察編で述べた。
枯渇した状態で水を飲むのと、
散々コーラを飲んでお腹いっぱいの状態で、水を飲むのとの違いである。
 
 
快楽より悲しみが起こり、快楽より恐れが起こる。快楽より解脱したる人間にとりては、もはや悲しみも恐れもなし。お釈迦様 
 
私の定義に要約すると、
満足状態(幸せ)になるから悲しみがある。 
喜び=快楽から悲しみが起こる。悲しみが嫌だというのなら、
 
そもそも、欲求に従う日々をやめなさい。
幸福を求めるのを辞めなさい。
幸福に見向きもしない人間になれば、そもそも悲しみなどないのだ。
 
 
となる。簡単に言えば、深い悲しみという不幸は快楽から生まれる。だから、そもそも欲求に支配されるな。という事だろうか。
人は生きていると、基本皆自身にとって楽で、簡単で、欲しいものが手に入る方向に向かう。だがお釈迦様は、欲しいものに見向きもせず、楽をせず、険しい道をいくように説いた人だという事だろう。
 
 
 
参照
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『喜び・悲しみ』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの、
数学の定理のようなものであるのです。
 
のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。
 
 

喜び・悲しみとはなにか?『考察編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)】
喜びと幸せの違い?
【幸せ…充足した状態 
 喜び…充填した時に起こる反応】

 

 ーーーーーーー

私は以前の記事でこのように定義を作成していきましたが、
『考察編』では、定義作成までの流れをご紹介します。
 
お悩みの方などは、
『応用編』をご覧ください。
 
(『考察編』は、実際に
『自問自答』をご自身で行っていただき、
テーマの本質をあぶりだす流れを体験していただく事を目的としていますので、
私の自問自答につきましては、
参考としてご覧ください。)
 
自問自答の方法については、
私のブログの読み方 をご参考ください。
ーーーーーーーーーーーーーー
❶辞書等、世の中の定義を集める
なんとなく世の中の定義が掴めたら次に進みます。
 
喜びとは?
 よろこぶこと。うれしく思うこと。⇔悲しみ
 祝いごと。おめでた。慶事。
 祝うこと。祝いの言葉。
 与えられた慶事や好意に対するお礼。また、その謝辞。
 
 
悲しみとは?
 1 悲しむこと。悲しい気持ちや心。悲嘆。
 2 (愛しみ)いとおしむこと。情愛。
 

 

 
 辞書では、なんと
 悲しむ事とは、悲しい事である。
 喜ぶ事とは、喜ぶ事である。
 という説明がなされている。
 感情を言葉で説明しようと思っても、難しいといったところなのだろうか? 
とりあえず、ある程度世の中の定義がわかったら、次に進む。
 
 
❷言葉の使用例等を集める
 
苦労の分喜びが大きい
受賞の喜び
喜びが続く
悲しみとは喪失感
悲しみとは虚無感 やりきれない気持ち 虚しさ
失恋の悲しみ
失敗による悲しみ
裏切りによる悲しみ
軽蔑による悲しみ
嫌われる事による悲しみ
他者との比較による悲しみ
死者に対する悲しみ
悲しみに暮れる
悲しみの色を浮かべる
… 
 
まとめる 
悲しみ、喜びは続くということは、止む
悲しみ=喪失 虚無 やりきれない虚しさ等、『心が空っぽ』という表現と繋がる印象を受ける。
喜び=満たされ、嬉しいという感情、ウキウキするような感情が起き、『心が満たされる』という
表現と繋がる印象を受ける。 
世間一般で嫌な事=悲しみ
いい事、ありがたいこと=喜び
 
世間のテーマへの解釈や、
偉人達の解釈がなんとなく掴めたら次に進みます。
 
違和感から仮説を立てていきます。
違和感がなければ、定義確定です。
違和感こそが、あなたが見ている世界の対象物の本質への鍵です。)
ん?そんな使い方するか?
と感じたと言う事です。
そうして、 次の手順に進みます。
 
 
❸仮説を立ててみて、一つ一つ自問自答し確定させていく。
 
仮説『悲しい・嬉しい。といった、感情の一つ』確定
 
…省略…
 
辞書で説明できないのは、悲しみや喜びというのは、その言葉に意味があるのではなく、
反応それ自体だからだ。
 
『椅子』といえばどういったものか説明のしようがあるが、
『喜び』といった場合、どんな表情で、どんな反応が体に起こり、どんな気持ち。などというのは辞書では説明しづらい。ある種学問じみてくる。
 
 
この仮説は正しいように思う。
正しい。しっくりくる。と思った時点で仮説を確定してok
(確定したら、仮説の横に確定と書くとわかりやすいです。)
 
 
 
私の定義では、
『感情=反応』(怒りの定義参照)であるため、喜びとは反応であるという事になる。
 
 
 
反応であると定義づけたのなら、
①なにが原因で反応し
②どんな結果を生むのか? 
がわかれば、喜びや悲しみの全容があらわになると判断できる。 
 
 
仮説『①原因は喪失と充填』△
 
正しいだろうか?
①例を出す。(実際に世の中の事案や定義にあてはめていく)
喜び…説明は省略するが、主に満たされた時に起こる感情であると容易に想像できる。その前提を覆す必要はないと感じたので省略した。 
悲しみ…主に喜びの対義であると辞書にある。そのため喪失による感情だと判断した。このあたりについては深く考えていない。
思いついた喜びと悲しみの関係性は、このような関係性という事だ。
 
 
②反対意見をだす。(批判)
物を失った時喜ぶ事はあるだろうか?と問えば、もちろんある。よって当てはまらないはずだ。
失いたかった物を失った時や、捨てたいものを捨てられた時、
嬉しいではないか。
 
悲しみもそうだ。
なにかを得た時悲しい事はあるだろうか?と問えば、もちろんある。
愛してない異性を抱いた時などがそうだろう。
これも当てはまらない筈だ。
 
③第三の意見を出す。
例えば喪失の対象物について、失いたい時があり得る。
しかし、その時でさえ失いたいと願った心は満たされている。
つまり、充足の対象は内面であり、外面ではない。と仮定すれば納得がいく。外面の物質的充足と、感情において、内面の充足は異なる事もる。という事だ。
 
内面が充足していれば人は喜ぶ。
外面が貧しく、大切な物を失い、何も後に残っていないとしてもだ。
 
仮説『原因は内面の充填と喪失』
 
ここからこのようなことも導き出せる。
『なんらかの悲しみと喜びを図る基準となるような、枠が存在する。』
充填と喪失があり、
その枠が満たされると満足し、
枠が枯渇すると悲しみが続く。
 
さらにその枠は人ごとに異なるのだろう。
でなければ、人ごとに悲しみが異なる理由が説明できない。
 
このような図が思いつく
 
【喜び  充填 ⇆ 喪失 悲しみ】

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バッテリーの画像で例えると、
私たちが心と表現するこの枠組みの中の”電気”となるなにかが
満たされると喜び・喪失すると悲しみが起こるように人間は作られているのではないだろうか。と判断した
 
このバッテリーの”電気”はなんだろうか?
 
仮説『電気=満足度』確定
 
心にある枠を満たす"なにか"が確かにある。
 
これを”欲求”と仮定してみよう。
するとこれは古い記事だが、幸福の定義と同じだと仮定したということだ。
私の定義では、喜びと幸せは同じ意味だという事になる。
 
ご覧になってはいない方のために、幸福の定義を引っ張ってきた。
幸せとは…【満足】(欲求の達成時)
幸福とは…【継続的満足】(継続的欲求の達成)
欲求…食・性等の生理的欲求 安全欲求 居場所欲求 承認欲求 自己実現
(マズロー欲求から参照)
 
喜び…【満足】(欲求の達成時)
とするなら同じだ。という事だ。
 
②反対意見をだす。
喜びは感情であるのに対し、幸せは感情ではないはずだ。
…省略…
幸せとは状態をさすのではないか?
 
③第三の意見を出す。
喜びとは、幸せや充実を示す感情
悲しみとは、不幸せや虚無を示す感情であり、
幸せとは喜び(充填)により、枠が満たされた状態をいう。
つまりこういう事だ。
欲求を達成した→喜びの反応○○欲求が満ち足りた→幸せ状態】
 
…省略…
ある程度、確証を得たので、この仮説は確定する。
 
 
欲求のバッテリーが心にはある。
その種類は欲求の数存在し、
マズローの説(下記)を採用するならバッテリーは連なっており
生理的→安全→社会的→尊厳→自己実現 という枠が存在し、準々に満たされていく。
 
個々のバッテリーの電気については個々でそれぞれ減少しはするが、定期的に満たされる状態=そのレベルでの幸福状態を達成していく事で次の段階へとバッテリーへと電気が充填されていく。
 
最小に満たしていくバッテリーほど、人間にとって最も大事な欲求と言える。
生理的欲求などは、自分の生命を維持するために、体に緊張状態をもたらすための機能ともいえるからだ 。
 
 
定義を作成していくにあたって、私が一方的に一旦取り入れる事にしたのが、このマズロー欲求5段階説である。
欲求には種類があり、段階を得て、人は異なる欲求を求めていく、というものなのだが、
欲求に種類があるだろうというのは実感として私自身にあり、ただそれが何種類くらいに分けられるのか、
一つ一つデータをとっていては時間が勿体無いので、一方的に妙に納得いった事からこの人の説を採用した。
 
もちろん納得いかない人はここで好き好きに心理学者等の欲求に対する論を取り入れてみていいと思う。
 
 
仮説『悲しみ・喜びは共通しない。確定
…省略…
 
充足感の基準も、
喪失感の基準も人により異なるためだ。
当たり前である。
 
 
例えば誕生日プレゼントを貰ったら人は必ず喜ぶわけではない。悲しくなる人さえいる。
 
では、悲しくなる人の例だと、その理由はどんなものだろう?『誕生日を迎えたくない。いつまでも若くいたい。』と考える人にとって誕生日は若さを失う日(喪失)であり、それに伴う内面の喪失感がプレゼントによる充足感(充填)を上回れば、なんだか悲しい誕生日となるわけだ。
 
また、『欲しい物ではない。』と考える人にとって、
欲求は充填されていないのに、
かわりに自分の行動を制限(喜ぶフリ)される事によって、
むしろプレゼントをもらう事が不快にすらなりうる。
 
とまぁこんなのも当然の話だ。
 
②反対意見
 
プレゼントは好意で渡すものだ。
喜びを感じるのは皆同じ
家族が死んで悲しいのだって皆同じだ。
 
プレゼントをもらって喜ばないのはおかしい。
家族が死んで悲しくないのもおかしい。
喜びや悲しみは共通している部分だってあるはずだ。
違うと言い切るのは違和感がある。
慣習や欲求が決まっている以上ほぼ共通する喜びがある。
 
③第三の意見を出す。
 
欲求については人間全員が共通すると考えると、例えば、承認されたい(繋がり)、お腹が空いた、眠たい、社会的地位が欲しい。などは共通する事になる。(程度は異なる)
 
社会が形成されている以上通常欲しがる物や、感じている事など
共通する部分がある。
 
例えば子供が欲しい。持ち家が欲しい。
車が欲しい。財布が欲しい。などだ。
 
これらを授かれば誰だって嬉しいはずだ!!
と思う人が大半だろう。
 
しかし少し考えればわかる。
持ち家は邪魔だと思う人
車は運転できない人
財布は持たない主義の人
 
などからすればプレゼントされても喜ばしいとは思わない。
欲求が共通するにせよその欲求を満たす対象物は、その人の欲求のバランスによって異なるため、共通するとは言えないわけだ。
 
年末にお歳暮でハムを送る人等がいるのは、
好みによってあまり分かれる事がなく無難だからだろう。
しかしそれでもやはり、ハムが嫌いな人や食べられない人だっているのは当然である。
 
 
仮説『喜びの感情は枯渇しているほど大きくなる』確定
 
…省略… 
 
運動した後の水と
コーラをお腹いっぱい飲んだ時の水の
美味しさの違いを考えれば一目瞭然である。
 
喜びの枯渇とはすなわち、不幸である。
不幸をしるものほど、本当の喜びという感情と高まりを知るとも言える。
悲しみを知る。という言葉があるがそうではない。
不幸を知る。が私の定義では正しい表現になる。
 
 
仮説『喜びや悲しみはコントロールできる』確定
 
…省略…
 
怒りと同じように、
自身に起こる体の反応なのだと考えると、
当然導き出す事ができる。
反応なのであれば、原因があるからだ。
その原因を探れば、悲しむ事も、喜ぶ事も可能なのだ。
 
 
 
仮説『突発的・継続的なものがある』
 
悲しみが継続する。
悲しみが長い間続く
と世間では表現するが、私の定義では、
それは不幸である。悲しみとは感情であり、
状態は満足ではない状態。不幸状態だからである。
 
悲しみやなにか出来事によって不幸となったなら、
あなたはまた欲求を満たす旅を始めなければ一生不幸のままである。
 
 
まとめると、
欲求とは自己への要求であり、
欠乏や体の維持のためか、体が反応し、緊張する事で自らを行動へと駆り立てるような機能を有しており、その欲求の達成があると喜びという反応が起こり、さらにその量が満ち足りた時、幸福感を得る。
反対に欲求を満たしていたなんらかの物質や事柄を失うと、悲しみという感情を抱き、不幸状態に陥り、
欲求不満となる。という事だ。
 
感情というのはやはり、
自分自身の体や精神の何らかの防御の機能であり、
自然と自分の社会的な立場・生理的な状態等、満たす事を求めるように作られているのだととる事ができる。
 
出た定義を覚えておく
 
ある程度仮説が固まったら定義を作ります。
どこかにメモしておくなどして、覚えておきましょう。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー0
 
 
自問自答の過程についてご紹介していきましたが、正直わかりづらいと思います。
人の思考の痕跡というのは、わかりづらいのが当然なのです。
 
私がこのブログで興味を持っていただきたいのは、私の見解や、定義についてではあり
ません。自問自答それ自体についてです。
 
世の偉人たちは、一致してこう説いています。
最も重要なのは、自分で思考し、答えを出す事なのだと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

喜び・悲しみとはなにか?『定義編』

 
ようこそ
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人生には
なんだか心にぽっかりと穴が空いたような日があれば、
充実して喜びはが絶えない日もありますね。
 
ではそもそも喜ぶ。悲しむ。とはなんでしょうか?
 
あなたにとって
喜び・悲しみとはなんですか?
 
私の定義をご紹介します。
 
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)
 
欲求の種類については学がなく、浮かばなかったので、マズローの5段階説を参照した。
・(自己実現 承認  社会 安全 生理的)欲求
 
心、精神には、欲求のバッテリーのようなものが存在するのだと仮説を立てた。さらにそのバッテリーは欲求の段階によって、その”電気”が異なり、喪失した時に悲しみが。充填した時に喜びの反応が起こると定義した。
 
幸せと、喜びの違い?
幸せ=充足した状態
   喜び=充填時に起こる反応
 
喜びは100%幸福基準が満たされていなくても起こる。欲求を達成するたびに起こり、
さらに、枯渇している時ほどその喜びは大きくなる。欲求不満であればあるほど、突如満たされた時、喜びは大きいという事だ。
(長くなるので応用編に続く)
 
 
私の定義では、
感情とは=反応であり、
喜びと悲しみとは、
コントロールできるもの
という事になる。
 
幸せの定義で紹介したが、
欲求の枠組みは内面の信念を変化させる事や習慣によって大きくも小さくもする事ができ、常時悲しみに関係する、喪失感、虚無感を感じる事も、常時喜びに関係する、満足感を感じる事も可能である。
 
喜びの原因に影響する事も、
喜びの原因それ自体を変える事もできるからだ。
 
 
そして当然だが、
喜びと悲しみは
欲求は共通する。
 欲求を満たす対象物は共通しない。人により異なる
 
欲求の種類は皆同じ(お腹が空く 眠い等)だが、その度合いが異なり、
さらに欲求のバランスによっても、欲しい対象は異なるはずだ。
 
例)眠たいけど寝ない人がいる。
眠たいという欲求は皆同じだが、その人の喜びは仕事(尊厳・居場所)の欲求の達成にある段階なのかもしれない。だから眠たいから寝るという欲求は既に満たした。というか満たす事のできる環境を築いている状態といえる。
 
 
 
そんな気もするが、違う気もする。
とお思いでしょうか?
 
大丈夫です。なぜならこれは、
"私"の『喜び・悲しみ』に対する"定義"だからです。
 
あなたが納得できなければ、
あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"
が作成できるはずです。
(私のブログの読み方 参照)
 
自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?
 

 

次回、定義の応用編をご覧ください

 


 

家族となにか?『応用編』

ようこそ
 
 このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
本来の家族の定義 
【一般的に核家族をさし、家族自体に本来意味はない】
親族とは?
…省略…

 

 

ーーーーーーー
目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《悩み編》

 
家族は支え合うのが当然か?
 
当然ではない。
 
家族は自分の都合の良い道具とみなす人間がこの世にはたくさん存在する。
家族の存在意義に決まりはないのだから。
 
支え合うのが当然と思う人は、良い人で、恵まれた人なのだろうという印象がある。
素敵な人だ。このような人ばかりならこの世界は素晴らしい世界なのだろう。
そんな人ばかりの家族はさぞ、幸福だろう。
 
反面このような人達は、都合のいいように利用されやすい人にも見える。テレビの感動番組や、広告の宣伝文句に騙されてしまう人などに多いようにも思う。そんな危うさがある。
 
だが、それを考慮しても
愛ある家族の素晴らしさには光るものがある
。話が逸れてしまったので、次の問に進む。
 
 
家族と縁を切りたい
 
家族との関係は切れない。無理だ。
切れないから家族というのだから。
 
親から見た配偶者としての家族なら離婚すれば良いが、親子関係は切れない。
 
関係を切れるなら仲間である。家族ではない。事実上の縁の切り方の方法はあるが、それは今は述べない。
 
 
家族が嫌い。私はおかしいのか?
 
私の定義から考えれば、
おかしいわけがない。
家族は良いものにも、悪いものにもなる。
捨てられない仲間であり、鎖のようなものでもある。よって、そもそもこの悩みの前提がおかしい。
 
家族が好きなのは当然なのだろうか?
家族が好きなのは、家族がたまたま自分にあっていたからにすぎないはずだ。
嫌いな家族も、恨んでいる家族がいてもおかしくはない。
 
問題なのは、恨んでいても嫌っていても
血縁は切れない事だ。さらに家族を捨てられない。この国では法律で、扶養する義務さえある。
家庭の問題に国が口を出す。故に現段階で個人は、どんな家族との縁も事実上しか切ることができない。
 
だから、通常の人は家族だけは支え合い協力する道を選ぶ。自身にとってもメリットが大きいし、誰しもが求める繋がりも手に入るからだ。
 
しかし、このような鎖で繋がれた関係なのにも関わらず、家族を蔑ろにするようなタイプの人間がよくいるのも確かだ。
 
そうなると、支えようとする者と、支えられようとする者。つまり、一方的に苦労させる側と、苦労させられる側に別れるなどして、家族のトラブルが生まれたりする。
 
こういった空気の読めない者を、嫌わず好きになれ。というのは酷ではないかと思う。
 
 
 
不倫している家族(主に親)がいて辛い。
 
 
一般的にこのような悩みを持つ子供は、かわいそうにみえるらしい。
が、私から見ると、以下に述べるタイプの子供の場合は、滑稽な親子である。
親と同じレベルの子供である。
 
 
この問題には一見複雑に見えるような問題が絡んでいる事が多い。
(辛いとはそもそも、
思い通りにいかない事を言う。苦しいという意味に近い。)
 
 
よくあるパターンを書いていこう。
 
よくあるパターンには、
①隠す事による辛さ
②親に同情する事による辛さ
等があるが、①隠す事による辛さを紹介する。その他は今後機会があれば述べたい。
 
 
不倫とは結婚契約の債務不履行である。
つまり、不倫とは裏切りである。
 
ある日子供は親の不倫に気づいた。
だが、子供はそれを配偶者に伝えられない。なぜならそんな家族だとしても、全員同じ屋根の下で暮らしたいという気持ちがあったりするものだからだ。
よって次のような順をたどって不倫する親に苦しむ子供は生まれる。
 
 
①当事者一方の裏切り(不倫)があると、
   通常は当事者がそれを知れば、
   債務不履行によって、
   相手は離婚 又 慰謝料請求
   という選択ができる事になる。
②だが子供は契約を破棄させたくはないし、家族が揉める姿を見たくない。
③以上の理由から不倫の事実を隠蔽するという選択をする。
④内心 裏切りを伝えたいが、
   外面  裏切りを隠す
⑤内心と外面の不一致から、子供には、
罪悪感というものが発生する。
人は自分の罪悪感に不快を感じるため、正当化する術を探し始める。
⑥この隠蔽の原因は元々自分にはない。
   その親のせいで罪を背負ったと思い始めるのがよくあるパターン
⑦やがて、その親を恨み始める。
   不倫する親のせいで辛い。と言い始める。
  (この場合の"辛い"=罪悪感
内心と行動が思い通り一致しないという事)
 
もし子供がこのようなパターンで、親に憎しみや怒りを抱いているのならば、落ち着いて考えるべきなのだ。
怒りの定義で述べたが、怒りとは
自分に媚を売る感情である。
そのため、その親に怒る子供は不倫した親を一方的に責めてしまう。
 
子供は自分から同じ罪を背負ったというのに。だ。
 
不倫をした親の罪が『裏切り』にあるという自分ルールを、子供が持っているのなら、
それを"隠蔽"した子供も共犯のはずなのである。
 
にもかかわらず、罪悪感に対する不快に感情が反応し、怒り、自分を擁護するに至っているというわけだ。
 
 
このパターンにおいて、
親が不倫をして辛い原因は、実は悩んでいる
子供自身が、『裏切りはしてはならない』という自分ルールを自分で破った事にあるというが通常である。
 
親の問題ではなく、自分の信念に反する行いを、損得感情によって犯したから起こっている、子供自身の問題なのだ。
子供はそれが悪いとわかっていながら、しているのと同じ事であり、親を責める資格はない。
どちらも同じようなレベルである。
『元々の原因を作ったのは親のほうだ!』と喚いても、同罪かつ同類蛙の子は蛙である。
 
 
 
つらつらと、王道パターンを述べたが、
隠す事で悩みを抱えているのなら、解決策は簡単である。
 
①信念と損得の優先順位を決める
②行動としては、
    信念優先なら告げ口すればよい。
    損得優先なら隠し通せばよい。
③心持ちとしては、
   信念優先の生き方をしたいなら、
   リスクを恐れない覚悟を決める。
   意地をはって生きると決める。
 
   損得優先の生き方をするなら、
   いっそ信念ごと変える(開き直る)
   悪い事を悪いと思わないようにすれば良い
 
   (先の例なら、『裏切る事は時には仕方ない』という信念に変える等)となる。
世間では、開き直る事を皮肉って、正当化する。というが、べつに悪い事ではない。誰だってやっている事だ。
心を開いて辛くない自分ルールに作り直す事は、自分を守る事でもあるからだ。とはいっても、常に開き開き直る生き方は、
基本的に小物であり、クズの生き方である。自分を省みて、偉そうに上から目線で人を責めない事をついでにお願いしたいものである。)
 
 
 
 

《名言編》

(名言編は、名言ひとつひとつについての、私独自の解釈を定義に沿って述べたものであるので、参考程度にご覧ください。)
 
人はそれぞれの家族を持ち、それぞれが法を持つ
 
私の定義で言っていることそのままである。
ジョン・カルボニエが誰かは知らないが、驚いた。
家族も法も『立場により無数にある』という事だ。
 
 
家庭とは、人がありのままを示す事ができる場所である。
 
これは私の定義にあてると、
家庭というのは『繋がり・愛』を得られる場所。という事になる。
 
これは、そうとも言い切れない。
家の中ですら本当の自分をださなければ、それは愛のない関係。繋がりとは違う関係であるからだ。
 
 
 
今回、重要な名言はこれらである。
 
幸せとは暖かく、愛に溢れた大家族を持つ事である。 
愛は家庭に住まうものなんですよ。子供を愛し、家庭を愛していれば、何を持っていなくても幸せになれるのです。
 
私の定義では、幸せとは通常は欲求の達成であり、
繋がり=愛というのは、私の定義では、普遍的な人間の欲求の一つであるため、愛のある家庭であれば、もうそれで皆幸せだろう。
継続的に繋がりの欲求を達成できるし、繋がりの欲求は人にとってポイントが高い。
愛のある家族を知る者からすれば、それは説明するまでもないだろう。
 
ここでのポイントは、愛に溢れた家族があるという事は、
当然といえば当然だが、愛のない最低な家族も存在する事だ。
 
例えば、
全員にとって家族の存在意義が『支えあい、助けあいや絆』にあるのなら
それだけでその家族は幸福になり得るが、
全員また一部にとってその存在意義が『邪魔、鎖、私利私欲ための道具』となるのなら
トラブルや不幸を無限に生み始める危険がある存在でもある。
 
愛のある家族を作りたいのなら、
理念の明確化と、その共有。つまり多少の努力が必要となるのだ。
家族というのは実際、
支え合いや、愛のある絶対的な存在ではなく、じつに不安定な存在と言えると思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『家族』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの
数学の定理のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。
 

家族とはなにか?『考察編』

   
   ようこそこのブログでは
   ”人生とはなにか?生きている意味?”等
様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々が
 
”自問自答をとおして自分を知り、
 世界を理解し、『自分の人生』を歩む" 
それらを目的に作成します。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
ーーーーーーー

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今回の定義
本来の家族の定義 
【一般的に核家族をさし、家族自体に本来意味はない】
親族とは?
【一般的に血族と姻族。法律的には6親等内の血族+配偶者+3親等内の姻族】
家族の存在意義とは?
【立場により異なり無数にある】
一般的イメージの家族とは?
【仲間の一種】
仲間との違い?
【強固さ】
家族の暖かみ?
【繋がり(存在の肯定】
鬱陶しく感じる原因 
【親にとって意図的な繋がりや絆
 子供にとって受動的な繋がりや絆・鎖】

 

 

ーーーーーーー
 私は以前の記事でこのように定義を作成していきましたが、
『考察編』では、定義作成までの流れをご紹介します。
 
お悩みの方などは、
『応用編』をご覧ください。
 
(『考察編』は、実際に『自問自答』をご自身で行っていただき、
テーマの本質をあぶりだす流れを体験していただく事を目的としていますので、私の自問自答につきましては、参考としてご覧ください。)
 
自問自答の方法については、
私のブログの読み方 をご参考ください。
ーーーーーーーーーーーーーー
 
家族とは
 
❶辞書等、世の中の定義を集める
 
 
 家族とは?
 1 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。
 2 民法旧規定において、戸主以外の家の構成員。
 
 核家族とは?
 一組夫婦未婚の子から成る家族あらゆる家族中に存在する第一次単位独立して存在する場合のみを指すこともある。
 
 拡大家族とは?
 
 
家族の族は、(漢字としての意味)で、祖先を同じくする集団。
という意味に由来するものだと思う。
つまり、家にいる親族。から来ているのだろうという事。
 
米英では拡大家族をささないらしい。
英国では召使いも含む事があるらしい。
 
主に、
【夫婦+子が第一形態。続(血が繋がっている者という意味と仮定)
この型が複数連携した者を拡大家族と呼ぶ】
 
 
 
といっている。
なんとなく世の中の定義が掴めたら次に進みます。
 
 
 
 
 
❷言葉の使用例等を集める
世間のテーマへの解釈や、
偉人達の解釈がなんとなく掴めたら次に進みます。
 
家族とは繋がり
家族とは信頼のある存在
家族とは避難場所
家族とは学校
家族とは自分の社会性の基礎
家族とは助け合い 支え合う
家族とは信じ合う関係
 
まとめ
家族には様々な役割がある。
本来的な意味は夫婦と子供の事
家族の定義は無数にある 
敵対する関係ではなく、友好的な関係
 
 
 
 
 
❸仮説を立ててみて、一つ一つ自問自答し確定させていく。
 
仮説『本来家族とは、血縁+夫婦+子の型の事を言い、特別な意味はない』確定
 
①…省略…
 
考察はこの前提から出発する。
 
 
 
仮説『家族に様々な役割があるのは、目的が色々あるから』
 
①例をだす。
 
イ家族とは学校 
ロ家族とは避難所 
ハ家族とは駅のホーム 
などという例がネットに落ちていた。 
 
これらは目的が違うのではないだろうか?というふうに考えてみたい。
 
イ 家族とは学校 
家族からお金の事や兄弟との関係等の人間関係や、
葬儀や結婚式など儀式等も経験し、様々な事を学びとる事で、
確かに家族というのは、いろいろなものを経験する場でもある。 
 
ここでの目的は、『学習のための家族』
家族の目的は『家族の知性の発育』といったところだろうか。
 
ロ 家族とは避難所 
家族以外のコミュニティで、なにか傷ついたり、
悩んでいたりしたとき、家族は避難所となる。ということだろうか。
家族は確かに、信頼関係、支え合う関係というイメージがあるし、
実際私も小学生の頃、濡れ衣を着せられて、友人に泣かされたとき、
家でうじうじと泣いていた記憶がある。
 
ここでの目的は、『自己防衛のための家族』といったところだろう。
家族の目的は『家族を守る事』といったところだろうか。
 
ハ省略する。
 
 
②反対意見を出す。(批判)
 
確かに目的は違うし、目的ごとに家族の役割が違う。
しかし、それには『家族に役割がある。』という考え方が前提にある
果たしてそうだろうか?
 
 
その家族の目的は誰が定義した、家族の目的なのだろうか?
筆者の家族には明確な家族の存在意義、理念、ビジョンはない。
 
暗黙の了解で、家族全員の幸せが理念のようなものだと察してはいても、
そのビジョンは家族それぞれの推測にすぎない。
しっかりビジョンの定まった家庭もあるのだろうが、
私の家庭はそうではなかった。
 
というより、家族のあり方などに、決まりはないだろう。
結婚していなくても、血が繋がっていれば家族となりうるし、
そして家庭内で、どんな規則を制定しても他人に関係のない話であるから、
役割を持たせる必要性がなければ、役割のない家族というのだってありえるだろう。
血さえ繋がっていれば家族なのだから。
 
修正(あてはめ)
仮説『家族に様々な役割があるように思えるのは、目的や理念が色々あるから』確定
 
 
これは、定義とはなにか?そのものにつながる。いつもの定義だ。
 
家族自体に全家族が共通している明確なビジョンがなく、理念もないのであれば、
家族とはなにか?という話には、答えなどない。
なぜなら、
家族の定義は”家族ごと”に定義が異なる事になる。
さらに家族が明確なビジョンを定義していないのなら
”人”ごとにも定義が異なる事になるからだ。
 
家族への印象も、
範囲も、存在意義も、それぞれ全く異なるのだ。
家族それ自体に役割があるのではない。利用方法や存在意義をそれぞれが見出すだけなのだ。
 
 
 
『家族ってこんな感じかな〜』というあなたの持っているイメージは、この式から来ている。
 
理想像(らしさ)の形成式
【偏見+利用価値(存在意義)=らしさ】
このような事から、家族らしささえも人により異なる事がわかる。 
 
 
仮説『家族というものに共通したビジョンや理念がない以上
正しい家族というものは存在しない』確定
 
①例を出す。 
・家族は敵となる家族と競い合うためにある。と考えている家庭があれば、
そのビジョンは親子で共に戦い勝利する事なのかもしれない。
 
・家族は心の安定のためにある。と考えている家庭があれば、
そのビジョンは親子が幸福に生きていく事なのかもしれない。
 
(さらにその理念やビジョンが私の家庭のように明確に掲げられておらず、
かつ家族に意志の共有もされていないような場合、
家族の一人一人によっても家族の定義は異なっていく。)
 
 
思いついただけでどんどん書いていけるが
このように、いくらでも違った家族の形などは存在しえるし、実際に存在している。
 
『助け合い、支え合い、信頼しあうのが家族だ』という者をよく見かけるが、
この一致は偶然の一致である。
 
宗教によるものなのか、
マスコミの影響か、
賢人達のならわしか、
民法が求める家族の形なのか、
そんなのはわからないが、
 
現段階で、その社会で
正しい家族らしきものは存在しても、はなからそんなものは
存在しないのだと決めてかかっておく事も大事だと思う。
 
家族を恨んでいる男がいたとして、
信頼しあえてない家族など家族ではないと、あなたが言おうとも、
彼にとっては家族とは憎むべき存在に変わりないのだ。
 
 
 
 
仮説『家族=社会の一種』確定
 
 
まだ定義の記事を公開していないが、
社会とは群れである。
その目的は主に、衣食住の供給・経済的発展・防衛などであると思う(推測にすぎない)
家族は血のつながりのある群れであり、目的も同じようなものだ。
 
…省略…
社会といって違和感はない。
この仮説は正しいように思う。
正しい。しっくりくる。と思った時点で仮説を確定してok
(確定したら、仮説の横に確定と書くとわかりやすいです。)
 
 
 
仮説『正しいらしき家族=仲間の一種』確定
 
①例を出す。
私の定義では、
 
仲間とは
『ある目的のための協力関係』の事である。
世間一般で、正しいらしき(助け合い、支え合い、信頼しあう)家族とは
『ある目的のための協力関係』と言える。
 
つまり、世間が言っている愛しあう家族というのは、
仲間のように家族を捉えていると言っていい。
家族と仲間との相違点は、縁が切りやすいかどうかにあると言えると思う。
 
正しいらしき家族とは
仮説『縁の切れない仲間関係』確定
 
①例を出す。
事実上、絶縁関係になっていても、
血縁関係の親子や兄弟との関係は、物理的にきれない。血の繋がり、DNA引き継がれるからだ。
 
また、法律上、親子の血縁を切るすべは用意されていない。
相続権 扶養義務等は、貧困や社会保障の増大を防ぐ目的でもあるので、
 
直系 同居の親族扶け合いの義務 730
生活扶助義務 877
親の未成熟子や配偶者への生活保持義務
等により、日本では法律上そもそも助け合う事を義務化している。
もちろん事情によっては、バカ息子や毒親への相続や扶養義務を回避する方法はある。が、家族関係(親子)はやはり切れないという事だ。
 
(どうやら、一般的な正しいらしき家族の形は、法律が求めたものだというせんが濃厚のようだ。家庭内の問題を民法で細かく制約しているあたり、
それほど家族同士助け合ってもらうほうが、経済的だという事なのだろうか?
この疑問についてはここに置いておく。)
 
 
 
まとめる
家族とは社会の一種 
仲間の一種になりうる。
家族に明確な定義などない。
それぞれが勝手に利用価値を見いだし、定義する。
それが家族とはなにか?家族らしさとはなにか。
正しい家族などない 
正しいらしき家族は国が求めたもの(推測)
暖かみの原因は繋がり 
正しいらしき家族=切れない仲間関係 
親からすれば意識的かつ能動的に手にした、繋がり
子からすれば無意識かつ受動的に手にした、繋がり又と言った所。
暗黙のビジョンと理念 
切れない仲間関係ゆえに通常は協力関係になる。(相互に助け合ったほうが得)
切れない仲間関係ゆえにそれを利用するクズ家族も存在する。
 
 
 
 
 
 

家族とはなにか?『定義編』

 
ようこそ
 
 このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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家族は支え合わなければならない。
家族は助け合わなければならない。
家族とは絆
家族は永遠の味方
 
世の中には様々な定義がありますね。
家族の事を考えると、心が温かくもなり、逆に心配にもなり、ときに鬱陶しく思う時もあると思います。
 

あなたにとって、家族とはなんですか?

 
 
それでは今回の私の定義を紹介します。
 
まず、話の前提となる定義からご紹介します。
 
   本来の家族の定義?
一般的には核家族をさし、家族自体に本来意味はない。
   既婚者から見た…配偶者+子供
   未婚者から見た…兄弟+親
 
 
 
   親族とは?
一般的には血族と姻族。
  法律的には6親等内の血族+配偶者+3親等内の姻族
 
 
  『一般的に』という言葉を使いましたが、そうです。ハッキリした家族の形等ないのです。
   英国では召使いも家族です。
   某悪人たちは赤の他人ともファミリーです。
 
 
 
   家族に意味はない。と断言していますが、
  『家族とは〇〇だ。』といった様々な定義は世間ではよく聞く話です。
 
   私のブログをご覧になっていただいている方にはおわかりかと思いますが、
   ご存知の通り、いつもの定義の登場です。
 
   家族の定義は人や家族により異なり、
   それぞれが自由に家族に利用価値を見出して、定義する。よって、
家族の存在意義とは?
立場により異なり無数にある
 
   家族の存在意義に明確な定義等はなく、
  正しい家族等はないという事です。
 
 
 
 
 
 
   そうはいっても家族というものに対して、こういうものだ。
   というイメージをお持ちなのが実際のところかと思います。
 
    例えばこういったイメージです。
  【支え合い、助け合い、信頼し合う関係】
 
   私の定義で『仲間』とは、
  【目的達成のための協力関係】ですが、
   家族の目的が家族全員の充実や安定にあり、
   さらに家族の存在意義が支え合い等にあるとすれば、
   それは仲間=家族という事になります。つまり、
一般的なイメージの家族の定義とは?
仲間の一種
   であるということになります。

 

 
 
   さらに通常の、
  仲間と一般的なイメージの家族との相違点は?
 【強固さ
   にあると言えます。
 
   血縁は切れません。
   法律上も、物理的にも関係を切ることはできません。
   家族という関係は事実上解散していても、
   一生血縁である事に変わりありません。
   切れないのであれば、
   通常協力しあったほうが得であるし、経済的です。
 
   民法にも扶養や保持義務、扶け合いの義務が存在しますが、
   そういった経緯からだと推測します。
 
   仲間は目的が変わったり、
   気が乗らなければいつでも同盟を解除できます。
   家族はそれができません。絶縁したとしてもそれは事実上の解除であって、
   実際は血縁も法律上の親子関係も切れてはいません。
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
   仲間の定義や友達の定義で充分お話しましたが、
   家族に暖かみを感じる原因は、
   私の定義では相変わらず
  【存在の肯定(繋がり)
   が原因だと考えます。
 
 
 
   では、
   家族がときに鬱陶しいと感じるのはなぜでしょうか?
   それは主にあなたが子供として家族を捉えた場合だと思います。
   家族が鬱陶しく感じるその原因とは?
 
  【親の立場から見た家族は、
   意識的かつ能動的に手にした、繋がり・絆
   であるのに対し、
   子の立場から見た家族は、
   無意識かつ受動的に手にした、繋がり・絆であると同時に、
   切っても切る事のできなでもある
 
   親は望んで手に入れた絆だが、
   子供は生まれる親を選べない。
 
   受動的にその繋がりを手にしているぶん、
   生まれながらにして動物園の牢にいるようなものであり、
   愛を受け取っていたとしても、窮屈さを感じる事もあるのは当然なのだ。
 
 
 
 
 
 

   家族の定義を通して

   一般的な家族というのは、切れない仲間関係であるから、
   家族助け合い支え合ったほうがお互い得であるし、
 
   人間は本来『愛・繋がり・絆』ともいえる、
   存在の肯定を求めているため、
   通常は自然にお互いを助け合う関係になる。
 
   しかし、家族によっては、
   性的虐待をする親だったり、
   子に自身の夢を重ね、無理やり子の人生を決めるような
   利己的で愚かで、長生きする価値すらもない親もいたり、
   人を殺めるような鬼子を抱える家族もる。
   そういった繋がりは切りたいけど切れない鎖ともなりうる。
 
   家族というのは、原則良いものに見える。
   人が愛を求める以上、暖かい関係性に見える。
   ただし、子供の人権を著しく損なう最悪の鎖にもなる、
   危険性を秘めている関係性でもある 
 
   一概に家族は素晴らしいものだ。とは言えないはずなのだ。
 
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー0
   そんな気もするが、違う気もする。
とお思いでしょうか?
 
大丈夫です。なぜならこれは、
"私"の『家族』に対する"定義"だからです。
 
あなたが納得できなければ、
あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"
が作成できるはずです。
(私のブログの読み方 参照)
 
自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?
 
次回、定義の考察編をご覧ください

夢中とはなにか?『応用編』

 
このブログでは、
”人生とはなにか?生きている意味?”等
様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々が
”世界を理解し、『自分の人生』を歩み始める事" 
それらを目的に作成します。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
夢中とは?【完全に注意を向けた状態】
『夢中になれる人が羨ましい』の真意
【自由への憧れ(現実逃避)】

 

 

ーーーーーーー
目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
………………………………………

《悩み編》

夢中になっている人が幸せに見える? 
世の中の、夢中になっている者は、
ワンピースのルフィのように、強い意志により、夢中になったのではなく、
たいていは、ノー天気なおバカさんであり、
幸福そうに見えるのは当然なのだ。
 
歩きスマホをしながら高速道路を徒歩で歩いている者がいるとしよう。もちろん死んでも良いと思っているわけではないだろう。つまり、危険や恐怖を頭で予測すらしていない。怖いもの知らずという事だ。
 
人は不安や恐怖を抱えて生きている。それを意識してすらいない者はそりゃ幸せだろう。たが取り巻く環境によるけれど、そんなのはたいてい長続きはしない。
 
子供ならやがて大人になる。
ニートならやがて親は死ぬ。
ワーカホリックなら体調を害する。
夢中状態を支える者が存在しなくなれば、
バランスよく生きていかざるをえなくなる。
 
 
夢中になれない。夢中になれない私はおかしいのでしょうか?
というような悩みを見かける事があるが、あなたは正常なのだ。
むしろ危険なのは、夢中になるべきだという世の中の風潮のほうなのだ。
 
 
 
 
夢中になるにはどうしたらいいのか?
以上のような事がわかっても、夢中になりたい人はいるだろう。
 
夢中になり、リスクを恐れない状態でなければ、常人は挑めない挑戦もある。
夢中にならなければ描けない夢もある。
夢中にならなければ勝てない相手もいる。
 
それは筆者もわかっているつもりだ。
世の中の偉人は皆なにかに夢中になった存在だ。何か偉大な功績を残すためには、一つの事に狂うしかない。
 
 
アインシュタインもこのような事を言っている。
 
 
 
 
 
夢中になりたい人は
まず、夢中状態になる前に、夢中というものを理解して欲しい。
 
まず
第1の前提…夢中状態とは盲目状態だ。
 
夢中とは、
他が目に入ってない状態。他から隔離され、魔法にかかったようにそれの事しか考えられない状態。
つまり、夢中には本来、ならないほうがいい。危険すぎるからだ。
わかりやすく言うと、
ワンピースのモンキー・D・ルフィだ。
海賊王という夢(ビジョン)や冒険に夢中になり、他(食 医療 危険 船 )等全てをないがしろにしている。
 
本来このような状態には、なってはならない。助けがなければ、すぐに破綻するからだ。都合よく誰しもが助けてもらえるわけではない。
 
現代人にあてらめれば、
仕事の目標達成にむけて、
ワークライフバランスを著しく欠いている状態で、精神や家庭や健康等、様々なものが破綻していく状態だと考えるとわかりやすいだろうか。
普通の人は生活の知識や、家族の問題等、ないがしろにはしていないというか、する事はできないだらう。
こんな状態をお勧めできるわけがない。
 
 
 
第2の前提…他者を巻き込む
 
なにかに夢中になる者には常に、それをカバーする達が現れる。
夢を託す者や、応援して希望を覚える者、支える事で生きがいを見出す者、
その他、義務があるから助け、支える者、仕事だから助ける者などである。
 
なにかに夢中になる者にとってそのような取り巻きは必須の人間であるため、むしろ現れなければ夢中状態は継続できないからだ。需要と供給が成り立つのである。
 
先の例の人々を見るとわかるが、
夢中状態の人はその存在自体が他者の迷惑、または希望、その他仕事にもなる。
ということが言える。
夢中状態が良いものかどうかは一概に言えないが、
どちらにしろ、他者をあなたの都合に巻き込むという事だ。
 
 
この前提から、
あなたが夢中状態になった時、次の出来事と向き合う可能性があるだろう。
自分のせいで、自分を守ろうとした者や、応援してくれていた者、支えてくれていた者に
多大な不利益を与える。という状況だ。
あなたが夢中状態になり、そのあなたを支えるという事は、あなたの巻き起こすリスクを、他者に共に背負わせることになるという事だ。
 
例を出しておこうーーーーーーーーーーーーーー0
例①
台風の日にポケモンGOしていて、あなたは川に落ちたとしよう。
すると、あなたを助けようとする者が現れるだろう。
レスキュー隊や、親かもしれないし、通行人かもしれない。
もちろんこの救助では、その他者も死ぬ可能性がでてくる。あなたの夢中のせいで、あなたが前始末しておかなかった危険に、他者も侵されているのだ
他者は使命感からなのかもしれない。仕事なのかもしれない。
勝手に巻き込まれる者というのもあろうが、巻き込んでいる事に変わりはない
あなたの存在自体がなければそもそも起こらなかった危険であるからだ
この場合の不利益は怪我・死である。
 
例②
あなたがアイドルだとする。。
ある日あなたがファンとの不倫関係に夢中になり、スキャンダルになったとしよう。
するとどうだろう。
あなたがアイドルとなるため、協力してくれた人。支えてくれていた人。応援してくれていた人などを傷つける事になる。さらに、家族に至っては、憤ったファンに実家を燃やされ、殺されるかもしれない。
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このように、あなた自身が突っ走った行いをする事で
責任をとること等、到底できない出来事に遭遇する可能性がある。
それこそが夢中=偏執狂になるという事だ。
 
 
 
夢中になる事とはすなわち、
他人をあてにする。すなわち、他者を利用しなければ継続できない状態である。
 
であればあなたは、夢中状態に突入する前に、心構えとして、
一定の覚悟を持たねばならない
 
例えば
目標達成に夢中となるのなら、自分だけの夢ではないと知る事。
つまり、自分の行動から発生する事柄全てに責任を取る覚悟
 
このような心構えを持って欲しいのだ。
責任を負いたくない。自分のせいで発生する、責任をとることのできない重大な事柄と向き合いたくない。と思うなら、そもそも夢中状態になど、なるべきではない。
そういった覚悟・心構えのないものが、
無意識に夢中状態になり、他者に多大な迷惑をかけ、最悪自分の命を絶つものまでいるのが現実なのだ。
 
一応このような覚悟の他に、
・自分のために他者を利用し使い捨てる覚悟
・他者も自分を利用しているし、自分も他者を利用しているだけという思想
・自分にとってボールペンと同等の奴らといった他者を見下し自分を正当化する思想
他者を人間でなく、道具として利用する思想を固め、自分を正当化する心構えもあるが、
そんなのは私利私欲の奴隷の考え方で、理にかなっているが、人間の心構えとはいえない。
 
夢中になる者は常に、人に夢を託され、命を託されていたりする。
支えられ、他者の命を消耗し、他者の人生を奪っている状態でもある。
途中であなたが夢を諦めたり、夢中になるのを辞めたりした時、あなたは散々身勝手に傷つけた人々を目にすることになるだろう。
 
夢中状態となり、他者を利用する者には、重大な責任があるという事だ
 
 
 
 
 
 
そんな事情も分かった上で夢中になりたい理由があるのなら、以下を読んでほしい。
 
 
夢中状態に突入するには、そのきっかけがある。きっかけを簡単に図にしてみたので、
あなたには下記図表をご覧になってほしい。
 
《夢中になるきっかけ》
❶目的あり+意識的 生産性がある事が多い
 例 使命感により夢中になるなど。(マザーテレサのような人といえばお分かりだろう)
 
❷目的なし+意識的 生産性がない事が多い
 例 ネットゲームに夢中になる
❸目的あり+無意識 生産性がある事が多いが自分の人生と言えない
 例 虚栄心により夢中になる。(仕事に夢中になる。学業に夢中になる。)
❹目的なく+無意識 無意味
 例 砂場で山を作っては壊す事に夢中になるなど。
 
 
まず、どの夢中状態を実現するか?だが
 
今この項を読んでいる人は、
現時点で無意識に夢中にはなっていないのであろうから、
意識的に夢中になる方法を考えていく。
 
❷は生産性がなく、人生の目的それ自体を持たない生き方なので、
私のブログのテーマに沿わない。よって、❶の方法を紹介する。 
 
 
 
では、どのようにして、意識的に夢中になるのか?
夢中になりたいのなら、まずあなたの行動理念を考えてほしい。
 

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夢中になる方法 (❶の夢中)
 
⑴ 自分の生きる意味や目標を決定する 
 
理念やビジョンを決めるという事だ。会社の事業計画などを参考にするといい。
簡単に言うと、
 ⒈なぜ生きるのか?
 ⒉どうなりたいのか? どうあるべきなのか?
   3.以上に従い生きた時、他者から見た自身の存在意義とはなにか?
 
この3つを考えてほしいのだ。
じっくり一番時間をかけても良いところで、すこしずつ修正する方法をとっても良い。
 
⒈と、⒉については、自身の内心に留め、毎日寝る前に意識すると良い。
⒊については、次の段階で、他者に掲げる自身の行動理念となる。旗印のようなものだ。
 
ちなみに生きる意味は、不安定な事柄にしてはならない。
例えば、私の生きる意味は、『代々続く会社を守るため。』
などとしてはならない。不謹慎だが、潰れてしまえば、あなたは生きる意味を見失うからだ。
    ↓
 
⑵ アイディアを待つ
 
ビジョンと理念だけ毎日考えていれば、自然とアイディアが頭に浮かぶと思う。
あなたの頭に湧き出たアイディアに従う。
図書館に行きたいと思ったなら図書館へ行く。
似て非なるもので、好奇心などは無視する。好奇心とは虚栄心それ自体であり、無意識から発生する夢中❸だからだ。
後で参照するが❸は自分の人生を捨てている人生を歩む事になる。
 
    ↓
 
⑶ アイディアが浮かんだら実行する。
 
例えば、あなたの生きる意味が世界を少しでも楽しくする。という理念だとして、
アイディアから地元の公民館で餅つきイベントをおこなう、というビジョンを思いついたとしよう。
あとはそれを実行していけば、
他者へ⒊の理念を掲げ活動していく事で、支える者達がどんどん現れる。
よってあなたはどんどん夢中になれる状態向かっていく。
先の例で言えば、夢中状態に向かうにつれて責任も付いてくる。引くに引けない状態になる。
よって、夢中にならざるを得ない状態に自分を持っていけるというわけだ。
しかしそれでも大丈夫だ。辞める理由がない。あなたは自身の生きる理念に沿っているだけだ。自分の人生を生きているだけだからだ。
 
夢中状態❶にもっていく方法の一つを紹介した
他にも方法はあると思うが、非常に簡単な方法の1つなので、記述しておいた。
 
 
 
 
夢中になるきっかけ?
 
とりあえずはこの二つに分けられるだろう。
①意識的 ②無意識
 
さらに、夢中になる事には
①目的がある場合 ②そうでない場合 がある。簡易だが、先ほども紹介した図を今一度参照したい。
 
❶目的あり+意識的 夢中になる 生産性がある事が多い
 例 使命感により夢中になるなど。(マザーテレサのような人といえばお分かりだろう)
 
❷目的なし+意識的 夢中になる 生産性がない事が多い
 例 ネットゲームに夢中になる
 
❸目的あり+無意識 夢中になる 生産性がある事が多いが自分の人生と言えない
 例 虚栄心により夢中になる。(仕事に夢中になる。学業に夢中になる。)。
 
❹目的なく+無意識 夢中になる 無意味
 例 砂場で山を作っては壊す事に夢中になるなど。
 
例えば、
❶はモテるために、意識的にファッションに夢中になったり、化粧に夢中になるものがそうだろう。
これは目的があり、さらに意識的であり、生産性がある夢中状態という事になる。 
 
❷はニートなどがそうだろう。
自分で稼いだ金で趣味をしているものを、
『趣味に夢中』と世の中では定義しているが、私から言わせると、それは休日に集中して趣味をしているだけで、夢中の段階には到達してないと言える。
 
❸の人間で、特に虚栄心に突き動かされ、特に”経済競争”に躍起になっている者が世の中には数多くいる。
ブランド 高級車 学歴 年収 人脈 …
これらの形成に躍起になっている人間たちだ。男性に多いだろうか。
 
経済は現在、自由競争になっている。簡単に言えば弱肉強食だ。
だから、競争には負けるわけにはいかない。
お金は稼がなければならないし、知性は磨かなければならない。
 
しかしだからと言って、そこに集中しすぎているもの達があちらこちらにいるのはどうもおかしいと筆者は考える。
 
他人を全て敵として、人に勝つことだけに集中し、職業にも優劣をつけるなどし、学歴や年収にとらわれ、人に褒められたい、人に認められたい。と躍起になっている。
 
そのような人が俗に言う成功者となった時
世間からはちやほやされる事はあるかもしれないが、
口を開けば自慢話を始める、鬱陶しいその辺にいるおじさんになるのが目に見えている。
 
 
このブログをご覧になっている方であれば、
私の言いたい事はお察しの事かと思うが、
 
虚栄心により、なにかに夢中になる人は通常、自分の人生を生きているとは言えない。
無意識に夢中になった。という事は、その夢中になった原因、すなわち虚栄心に支配されている事と同義だ。
 
私のブログは、自分の人生を歩んでいただく願いを込めている。
先の例のような、競争だけにとらわれている人生は、もちろんお勧めできない。
このブログの立場からすると、”悪い”夢中状態という事だ。
 
 
そういった生き方は正直、動物や虫と変わりないと言える。
自分の意志で生きた人生ではない。
社会に競争させられていて、勝つための姿にさせられているだけの人生となる。
 
競争に勝つために、自分を外側に適応させた生き方なのだ。
アウトサイド・インな生き方とも言える。
(体育会系の人間が世にのさばっているのは、このためだと言えるとも思う。何も疑わず、素直な者ほど操作されている。自然の制約にだ。)
 
現代は、とくに経済競争に勝つため、勝つべくした姿形の形成に夢中にならざるをえない事を、自然の摂理だからしょうがないと、あなたは思うだろうか?
 
それが例え、狡猾かつ残忍で、最低な独裁者のような人物像だとしても、
その姿が明らかに世界の真理やあるべき姿に沿ってなかったとしても、
自身がそんな自身の姿を実は恥じていたとしても、勝者でさえあればいいというのだろうか?
 
そんな自身に疑いを持っても”世間はそのあなたを評価する”。
ゆえに、これでいいんだ。と過去の自分を無理やり正当化した滑稽な中高年もその辺にいるが、
 
そういった人生が最高に素晴らしい人生と言い切れるだろうか?
 
 
 
 
 
実際、そのような勝者(その時代の成功者等)は、どこにでもいるし、あなたじゃなくてもいずれ現れるのだ。社会のシステムが作り出した、動物と同じ自然それ自体だからだ。
世間一般の人々は、このような成功者を崇め、奉り、我もそうたらんと思っているのが大半であろうと思うので、そうなりたいなら止めはしないが。
 
私が述べたいのは、金持ちになる事や、成功者と呼ばれたり、ちやほやされたり、モテモテになる方法などのノウハウではない。
唯一無二。ここにいる自分は”一人”それ限りであるという原則に目を向けて欲しいという事なのだ。
 
あなたは唯一今、この瞬間、この1世紀の間のみ存在する唯一の存在であり、
考える事ができ、客観的にものを見る事ができ、余裕を持てて、自己で意思決定が出来る。
 
あなたはただの自然の一部でもない。
ただの動物でも、虫でもない。”人間”なのだ。
 
 
競争社会の中で、自分自身の在り方に疑問を持っている者。なにかに無意識に夢中になっている者などは
夢中になった原因は何だったか?向かいあって自分と対話してみて欲しい。
 
なにかに夢中になれば人は夢中になっているものに自らを支配される。
競争それ自体に夢中になれば、その夢中に自らを支配される。
趣味でも同じだ。趣味それ自体に夢中になれば、その夢中に自らを支配される。
 
だから夢中になった原因を思い出すのだ。
 
あなたは、
自己満足で夢中になっているのか。
自身で見出した人生の理念に沿って夢中になり始めたのか。
虚栄心などから夢中になったのかで大きく変わってくる。
 
これらには、
・欲望に支配されているのか?
・虚栄心に支配されているのか?
・自身を意志で支配しているのか?
といった違いがある。
 
もちろん3つめであるべきだ。
あなたが夢中になっているものは、あなた自身が夢中になる事を選択したものなのだろうか?
また、無意識にそうさせられているものなのだろうか?
考えてみる価値はあると思う。
 
 
 

《名言編》

引用:インクワイアリー
 
このように、世の偉人達は、夢中である事を否定してはいない。
夢中になる事は、偉大な事を成し遂げるための登竜門なのかもしれない。
 
 
だが、先に述べたように、
夢中状態になりつつあり、また夢中状態になろうと思うのなら、
夢中になる原因と、その責任これとは、必ず向き合う必要がある。
 
 
 
おまけ①男性の自慢話の謎?
競争に夢中になっている者は悪気なく会話でもマウンティングをするため、
男性は特に経済競争に関わりが深いぶん、自慢話が多い。
男の自慢話を聞いて、褒めて欲しいのだろうと、たんに思う方もいるかもしれないが、
競争それ自体に夢中になっているだけなので、実際は、会話においても競い合いたいのだ。
レアなフィギュアを見せ合うオタクのようなものだと思えば良い。
ビジネスの競争に夢中になる男性たちにとっての、
レアなフィギュア=年収や学歴、その他人脈なのだ。
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おまけ②虚栄心との付き合い方 
虚栄心とは、自分を大きく見せたい気持ちである。
つまり虚栄心に基づいて生きる事は、他人の目線を常に気にして生きる事であり、
他人の目線を常に気にして生きる事は、他人の望む姿になる事であり、
自分で決めた人生を生きている状態とは言えない。
 
世間には、虚栄心により、夢中になったものが外面磨きの人間が大量にいる。
 
外面?…金稼ぎ 出世 連れている女比べ 高級車 腕時計 学歴 腕力…)
虚栄心を満たそうとすると、延々と虚栄心を満たすためになにかに夢中になる状態が続く。
 
上には上がいるので、常に他人とマウンティングして、自分が勝てる分野を探したりする。虚栄心に支配されている人生を歩む人間で、よく見かけると思う。
 
考えればわかるが、
外面は上がったり下がったりするから、
 
たとえば、転職等で年収が減った時など、過去にすがりつく人ができあがる。
こういう人は、相手の年収を聞いて、自分は昔これくらい稼いだ。という話をする。
女の話なら、これくらい股をかけて、これくらい貢いだ。という話をする。
定年を迎えた社会的地位が高かった人なら、
俺は昔どこどこ会社の部長をやってたんだぞ。お前のような若者に指図される覚えはない。
というアルバイトパートなどのおかしな老人が誕生する。
 
過去自慢というのは、
虚栄心を外面に置いて生きてきた。という事の表れである
 
 
では、上下しないもの、例えば知識の習得に夢中になれば良いのかというと、
それはそれで、やたらと知識をひけらかす人ができあがる。
 
例えば語学が堪能だと、聞いてもないのに普段から『スペイン語喋れないの?俺はペラペラだよ!?ありがとうは、〜ていうんだよね。』と、いった人間がたまにいるがその典型である。
 
知識自慢というのは、
知識を知性や知恵のためにあるものでなく、
自分の価値と考えている事の表れである。
こうして、学歴も華やかで、様々な知識を豊富に持つのに、なぜか無能で傲慢な耳学問人間というのが誕生する。
 
 
 
こういう人間になりたくないが、虚栄心は抑えられないというのなら、
内面(人格 (寛容さ 謙虚 誠実 勇敢さ)磨きに夢中になると良い。
 
内面は上がり下がりしない。
内面が定年で急になくなることはない。そのため、過去自慢はありえない。
 
内面は自慢にならない。というより、自慢しないことが現時点では内面の良さだ。
その内面の奥深さ、内面の強さに誇りを置く。
外面でなく、自身の行動や内心を誇り高いと思えるようにするのだ。
 
誠実さで勝てないなら、謙虚さで負けない。
という人間がいたとして、恥ずかしい人間には見えない。
人格主義とでもいおうか。
実際は内面を磨くうち、虚栄心も削られていっているはずだ。
 
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このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『夢中』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、
定義=数学の定理
のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。