自問自答のすすめ

『人生が変わる。自分を変える。』

『考える力』とは?

 

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私の言うところの
 
考える力とは?
記憶力であり、記憶力がない人は考える力がない。
(考える力とは、創造する力でもひらめく力でもなく、頭の中で問答を延々と続ける力)
 
 
通常人は
自問自答してもその内容を忘れてしまう。
なので、後日同じ問を何度も何度も繰り返してしまう。
故に、"考える力がない人々"が存在している。
 
我々凡人は基本的に、"馬鹿"なのです。

記憶力の問題は容易くカバーできる問題ではない。その解決策として…
 
自問自答の準備物
紙とペン 又 電子ノート メモ帳を用意する
 
これだけで、考える力がグッとあがります。
 
そこからさらに、このブログでは、
自問自答の方法私のブログの読み方 参照)
確立しました。
 
この方法により導き出した"定義"を覚えていく事により、
バラバラになった自分の思考を要約し、濃密なものにしていく事
が可能になります。(いわゆる思考のメタ化)
 
もちろんまだまだ未熟で発展途中であり、
改良を常に加えておりますが、
 
生きていくうえで利用する分には、
間違いなく試す価値のあるものになってきていると確信しています。
 
私の拙い文章力で、
世の偉人たちの説いた自問自答や自省の偉大さを、伝えられれば幸いです。
 
  
 
 
 
 
 
私は初めに
時間をかけて、自問自答とはなにか?
と考えている(自問自答)うちにふと、一つのことに気づきました。
 
それは、とても早いスピードで
"人は思考していたことを忘れていく"という事" です。
 
 
思考の整理学 :外山滋比古  にはこうあります。
頭をよく働かせるには、この"忘れる"ことが、極めて大切である。
頭を高能率の工場にするためにも、絶えず忘れる必要がある
 

 

どうやら、人はそもそも忘れる必要があるようなのです。
筆者は、現代は倉庫のように頭を使うのではなく、工場のように無駄なく知識を組み合わせ、創造するのだと述べています。
 
 
確かに
無駄な知識は忘却し、
その他新たな素材と合成し、アイディア、すなわち創造する事は、PCや人工知能の発展が目覚ましい現代では、人とロボットを分かつうえで重要な思考回路となるのでしょうが、
 
 
いざ試験勉強や自問自答等となると、この"忘却"は大敵となります。 
この壁が自問自答を行う際に立ちはだかりました。
 
問いを重ねると、先の問答を忘れてしまうのです。
 
 
 
ここで、
別の学びの話をします。
この世界では約2割ものを深く考える人が存在し
約8割の人々はものを深く考えない人というデータがあるそうです。
事実は研究者のみぞ知るのでしょうが、
私は妙に納得し
あくまでも仮説ですが、このデータを参照する事にしました。
 
そこで、
8割の人々は、本当にものを考えていないのだろうか?
 
私は疑問に思いました。
『一度しかない人生について後悔しないためにはどうすればよいか?』
『自分らしく生きるにはどうすればよいか?』
 
深く考えたいけど、答えが出ない。
なぜだろう?
そう悩んでいたのが私自身であり、
『考えようともしない人など本当にいるのだろうか?
そんな人はいるはずがない。人が自ら思考を放棄するはずがない。』
と若い私はこじつけのように考えました。
(実際は思考放棄をする人もいますが。)
 
そこで、先にあげた"忘却"の話を思い出し、
 
もしかすると
”考えない"
のではなく、
"考えることができない”
のではないか?
なぜなら
考えていた問を忘れてしまうから”
 
そして、ものを深く考える事が出来る人は
は、”以前した思考を忘れない”のではないか?という仮説を立てました。
 
つまり、私は”考える人と考えない人”の差異を
「”記憶力”の差"」 だと考えたのです。
 
そこで・・私は絶望しました。
私自身が”考える力=(記憶力)がない”のだという事に。
なぜなら、日頃から
例をだせばキリがないのです。
 
私は見たものすべてを記憶する人を何人も見た事があります。
しかし私は、昨日食べた夕飯を忘れる始末
昨日の午後8時ごろ何の番組をテレビでやっていて、誰が出演していたのか?
そんなことは全然覚えていません。
 
それと同じように、「自問自答の問いや途中の答え」を忘れてしまうのです。
 
では、"考える力(記憶力)のある人"しか「自問自答を繰り返す」
ことはできないのでしょうか?
考える力のない人は諦めるしかないのでしょうか?
 
もちろん、そんな事はありません。
対処法として、私が自問自答する際に又ものを考える際に”推奨する方法”があります
 
それが、
【①紙に書く 又 PCのノート等に書く】
(紙だと書くのに時間がかかるため、
タイピング出来たほうがより早く自問自答できます。)
 
 
 
なんだ・・・
とお思いでしょうか? 
 
そうです。心理カウンセラーの方等も、患者の思考を整理し落ち着かせ
心を安定させる時などに使用される方法だそうですが、これが常人の”とても手軽な思考方法”なのです。
記憶力の問題はすぐにカバーできる問題ではありません。しかし、考えたことを忘れるというのは問題があります。でしたら文章で残せばいい。と、単純な話なのです。
 
大胆な仮説で、曖昧だとお思いな方は多いのではないでしょうか?
私自身もこんな単純な筈はないだろうと考えておりました。 
しかし、こうして大胆に憶測データを参照し、
仮説を立てて自問自答を実践していくうちに、
仮説がある程度的を得ている可能性を感じ始め。 
それはだんだん確信へと変化していきました。
 
 
 
 
どうやら回りくどいな。。と思われた方もいらっしゃるかと思います。
 
しかし、なぜ紙をつかって自問自答をするのか
それを理解しておくことが、私のような"考える力"のない人間
思考方法を確立させるための、第一歩にもなるのです。
 
 
 『民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運な事だ。』

  
 
後書き
【自分で出した定義も
経験や知識の吸収により、変化する事がある】
 
ということも覚えておくと役に立つと思います 

 

 

 

『定義』とはなにか?

 

 ようこそ

 
このブログでは、
”人生とはなにか?生きている意味?”等
様々な難問に対し、
私自身の『定義』を掘り起こし、
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々が
”悩みを解決"
"幸せになる"
"強くなる"
”『自分の人生』を歩む"
”世界を理解する"
 
その他様々な場面で必要になる
 
"『考える力』を養う" 
それらを目的に作成します。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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『私の定義』とはなにか?
私にとっての対象物の定義とその本質】の事
 
私にとっての対象物の存在意義=定義と捉えていただいても、間違いではないかもしれません。
 
本質とは?
 
例えば、あなたから見たコーヒーは、苦い濁り水に過ぎないかもしれません。
しかし、私から見たコーヒーは、休息の象徴であり、回復薬のようなものです。
 
私から見たらブランド物の財布は、虚栄心の象徴ですが、
あなたから見たブランド物の財布は、努力の証なのかもしれません。
 
つまり、定義や本質はもちろん、個々人によって、別物になるものであり、私自身の世界観のごく一部ということになります。
 
 
(対象物に対する定義や本質は、人により異なるので、概括的な言葉の意味だと誤解をされないために『私の(から見た)定義』と呼んでいます)
 
 
普段このような自身にとっての定義に人は気づいていません。
派手なブランド物を持ち歩いている人になぜ、そのようなものに大金を払うのか
問うたとしても、その本人もなぜ、それに惹かれているのかわかってない事が多いのです。
 
その本質や定義をあぶり出す方法として、私は自問自答を利用しています。
 
 
なぜ?本質を知る必要があるのか?
 
先の話でお分かりかと思います。
私の定義に納得できないのが通常なのです。
 
私の定義を見たり、百科事典を見ても、
自分の世界において、自分の人生の答えは、自分しか知らない
というのが、事実です。
答えは外にはないのです。あなたの内心にあるのです。
 
しかし、『自問自答しろ!』
といっても、どのように定義づけをし、思考していくのか、そのようなことは
どこにも書いてありません。

ですから、思考方法の例として、
このブログは、自分自身に問いを投げかけ、内省をするというキッカケになるために。そして、ブログをご覧になった皆さんが、本当の意味で、自分の人生を生きていただく事をビジョンとして、存在しています。
 
 
 
 
例えば ”善とはなにか?"
というテーマに対する本質を考える時に、
 
哲学書を読んで、
 
そういうものから引用しても、
そうとしか言いえない原理は知る事ができても、
あなたの主観で捉えた世界観というのは全く違うはずです。
 
そして、あなたの主観で捉えた世界こそあなたの目にうつっている世界の筈です。
 
 
例えていうと、
動物によっては、世界はカラフルではありませんね。
けど私たち人間にとっては、カラフルです。
 
人間に紫外線・赤外線は見えません。が、見える動物もいます。
人間に超音波は聞こえませんが、聞こえる生物がいます。
 
子供にとって、モスキートーンは聞こえない音ではありませんが、
大人には聞こえません。
 
 
世界はカラフルなのか?単色なのか?眩しいのか? 騒がしいのか?静かなのか?
 
世界とはなにか?
どれが”本当”(客観)なのか?
それは、はっきりわかりません。
 
 
しかし、あなたの"対象物に対する印象や違和感等…あなた自身が抱くその対象物に対する本質" であれば、確かに知っているはずです。
 
今、実際にあなたの見ている世界がそうです。
あなたの見ている世界は、あなたの世界観(レンズ)を通して見ている世界です。
 
 
”外”からいくら情報(哲学書 学問書等)を得ても、私の定義をご覧になったとしても、
その定義に納得ができていなければ、あなたの世界観は私とは違います。
 
 
しかし、納得ししっくりきているようであれば、その対象物に対する見ている世界が私と近いという事でもあります。
 
 
あなたの思うように。あなたが定義づけるように世界は存在し、
あなたが思うように、あなたは悩みを抱えたり、喜んだりします。
 
 
故にあなた自身の『本質や定義』をあぶり出す事は、あなた自身が見ている世界観(レンズ)を知ることにつながり、
 
あなた自身の世界観を知る事は、
あなたの生きる世界を理解する事に繋がるのです。 
 
 
なんだか、書いていて壮大なお話に見えますが、とても、単純な話です。
 
(『自分の主観で捉えた世界を知って、世界を理解するなどおかしいじゃないか。』
 
世界を知ろうと本を読んだり、旅をするから世界を理解できるのではないか?とお思いにはなりませんか?
これについては、以下をご覧ください。
 
あなたは読んでいる冊子を"本"と呼び、百科事典で調べると、
それは情報が書かれた紙の事なのだと知ります。
 
世の中にある物を"物質"と呼び、
それは、物理学において定義されているのだと知ります。
 
目の前にあるりんごを"1個"と呼びますが、
それは、数学において、また日本語において"いっこ"と呼ぶのだと知ります。
 
それらを定義したのは誰でしょうか?
 
 
また、
目の前のリンゴが実は、生物にしか個体に見えない可能性はありませんか?
私たちにはリンゴに見えても、本当はりんごは私たちが頭でイメージして存在しているように思っているだけの可能性はありませんか?
 (先のモスキートーンや動物と人間の世界の色の認識の違いの例を思いだしてください。)
 
 
よく考え見て欲しいのです。
 
全てこれらの『定義』づけをしたのは人間です。
人間の主観で世界(擬似客観)を作り出し、理解しているのが人間なのです。)
 
自問自答をし、そこであぶりだした
あなたがテーマに対して抱いている『本質や定義』を覚えておけば、
なにかそのテーマが絡んだ問題などが出た時に
 
どういった意味か?
どう解釈すべきか?
どう次にいかせるか?
どんな問を投げかけても、
 
それらに対し、すんなり
”解釈”を出す事ができます。
 
 
いまいち、まだご理解いただけていない方のために、もう少し説明を付け加えます  
ーーーーーーーーーー
【「カーテン」とは何か?】 
なんの変哲もない、部屋の窓にあるあの「カーテン」です。
Wikipediaにはこうあります
『室内の空間・窓・壁などにつるす布』
しかし、本当に皆そう思っているのでしょうか? 
そのカーテンを自分でどう定義するかは本来自由なはずです。
 
『カーテンは地面に敷くもの』 と定義していてもいいわけです。
 その使い方はまちがっている!という必要はありません。
その人にとって『カーテンは地面に敷くもの』なのですから。
一般大衆にカーテンってなにか? をわかりやすく伝えるために、
 
あぁ!壁にかけてあるアレの事か
 
とわかるよう工夫されている説明や定義はあっても、
”あなた”にとってカーテンがなにか?という答えはネットには載っていません。
 
それが以前お話しした”外”に答えを求める事は”内”に答えを聞いてる事にはならない(自問自答)という根本的理由です。
  
なぜなら、
”あなた”の事は”あなた”しか知らないからです
ーーーーーーーー
 
私の言っている『定義』とは?
あなたにとっての、あなたのためその対象物に対する定義や本質なのです。
 
まことに人生において出逢う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。
引用:ローマ皇帝 マルクス・アウレーリウス 
 

 

このブログのテーマ

 
 

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 テーマ
自問自答を通して『思考力』を自分のものにし、自立した存在となり、自分の人生を歩む事
 
 
 
ローマ皇帝マルクス・アウレーリウス
『自己の内を見よ。君が絶えず掘り下げさえすればその泉は絶えず湧き出るであろう 』
 
『大切なのは、自問自答し続ける事である。』
 
経営の神様と言われた松下電機創業者 
松下幸之助は言います。
『お得意先からどれだけ喜ばれているか、たえず”自問自答すること”がよりよき明日の商売に結びつく。』
 
 
もっと名言等を詳しく知りたい方は、
管理人が感銘をうけたこのサイトへ
 
 
 
・・
 
多数の世の中で名を挙げた偉人たちが、
違う業界、違う職業、違う人種だとしても、共通して皆声を合わせて 
内省や思考、自問自答についての大切さを説いています。
 
私は、自問自答とは?
【自分との対話方法の1つ】だと捉えています。
 
内省や思考が大事。
そのうちの自問自答は大切だという事は過去の偉人たちの言葉よりわかった。
ただ自問自答とは読んで字のごとく自分に問いかけると言う事なのだろうけれど、
 
自分に問うとははて?何を問うのだろうか?
 
 
いろいろ質問形式を作ってみた。
○○とは何か?      =『定義』
なぜ〇〇か?       =『理念』
どうあるべきか?=『ビジョン』
誰が作るのか?   =『作成者』
何によるのか?   =『原因・要因』
なにから〇〇か?=『素材・材料』
 
 
しかし、これを問うたところで何の意味があるのだろう?
 
 私が
「会社は利益を上げるために存在する」 
と言ったところで、松下幸之助は 
「会社は人を育てるために存在する」 
と言うのかもしれない。
 
物事の『定義』を百科事典で調べる事は自問自答になるだろうか?
情報媒体(外側)への問は自分(内側)への問ではない気がする
 
しかし、物事の『定義』は百科事典や辞書にのっている事実 
これではダメなのか?
探せば定義はあるのに、
自分に問う必要があるのだろうか?
また、知識がない自分へ質問しても答えなんて返ってきはしないではないか?
布団を知らない人に布団とは何か?を問うても、
何か?という”定義”などわからないではないか? 
 
いったい何を問うのだろう?
そもそも「考える」とは一体なんだろうか?
『自問自答とはどうやって行うのだろうか?』
 
 
このブログは、
 
こうして自問自答そのものに、
教科書がない事に気付いた筆者が
 
『自問自答の方法』を確立し、
一歩一歩人生や世界を理解するため作成していくブログであり、
その過程を公開する事で、ご覧になった方々の
思考のヒントになる事を願い、作成していきます。
 
その始まりの第一歩が、私の自問自答による
"定義"であり、
今後理念、作成者、素材、原因編と考察を進めていきたいと思います。
 
 
 
後書き
 
私自身の『定義』というのは、
私の未熟さ故に、自身の経験や仮説が増えていくたびに、変化します。
世界の『定義』なども、時代や文化により、変化していきます。
なので日々新たな更新をするのは、
必然的な修繕でもあります。
 
しかし、定義は変化するとはいえ、
短期間の定義、また、長期間の定義であるとを問わず、
その段階で"自身にとっての世界はこうだ"という確信を持つことは、その間自身の人生を歩む為には有用であると私は考えます。
 
このブログをとおして、
読者の方の日々が、人生が、
より一層輝きを増し、独自の人生を歩んでいかれる事を切に願います。