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幸せになりたい
幸せになるために人は生まれてきた
幸せを願う
ご飯を食べて幸せ
幸福感
幸せな家庭
幸福追求権
ごく自然に使われている『幸せ』
という言葉、よく考えるとあいまいではありませんか?
何をし、何を食べ、何を考え、どう感じれば幸福なのでしょうか?
あなたにとって、幸せとはなんでしょうか?
それでは、私の"定義"をご紹介します。
幸福とは?
【継続的満足感】
幸せとは?
【満足感】
その本質は?
幸せになるには?
【満足基準を満たす】
・一度満足基準をあげると元に戻りづらい。(生活水準等)
・一度手に入れ満足したものを短いスパンで取り込むと満足度が下がる。(限界効用の逓減)
・宗教等による欲求の知識
このような様々な満足に対する法則や欲求について学び
日々幸福を感じつつさらに大きな欲求をとりにいくのが好ましいと言える。
手っ取り早く幸福になるには?
【満足基準を下げる】
幸福を実感するため(満足基準を下げる)のテクニックは、自分にとって幸福とはなにかを理解すればいくらでも作れます。
(応用編参照)
テクニックの1つである、
『今ある事に目を向ける』を例にを出しておきます。
(その他は応用編参照)
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子供が風邪を引いた。
夫と夫の休日に車で一緒に病院に向かう。
子供は軽い風邪のひき始めのようで、
すぐに治ると言われ、ホッと一安心。
その帰り道、
後部座席から外の田舎の景色を眺めてる時に
ふと、幸せだと感じた。
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この場合
以下のような様々な欲求が焦点だと思います。
(幸せな家庭を築きたい
社会的に認められる立ち位置でありたい。
家族が健康であってほしい
お嫁に行きたい
勝ち組になりたい
頼れる母になりたい
子供を立派に育てたい………)
すでに幸せな日々を送っていたとしても、
満足基準が高まっていれば幸福感を常日頃から感じると言うことはありません。
それが一種の危機があったことで、今あることに目を向けた結果、
高まっていた満足基準が下がり、
当然としていた欲求の達成を確認し、再び達成済みの満足感を味わったのでないかと推測します。
それらの欲求の達成を再度味わい、
幸せだな〜と感じたと"私は"定義します。
人の幸福とは結局なに?
【愛する事・愛される事 (本質:存在の肯定)】
人が求めているのは結局、自らを愛し、他者を愛し、さらにそうして他者を愛する行動それ自体に幸せを感じる事が、最大の幸福だと考えています。
このようになりますが、これはつまり
自己防衛(自己愛)→他者から肯定(愛される事)→自己実現(否定肯定)→他者貢献(愛する事)
となります。
自己愛により自らを守り、生理的な欲求が満たされないと不満、欠乏を感じ、
身の安全を維持できたら他者から愛される事や承認される事望み始め、
その土台の上で、さらに自分の”本当”をあるべき姿(理性で肯定できる存在)に改変し始め、最終的に他者に尽くす事を求め始める。という事ですね。
結局人は自分や他者に愛されて、それを土台として、それらに満足したら愛する事。それが人の幸せだと言う事です。
これは理屈でも筋が通ります。
例えば結婚で考えると、夫に金、世間体、束縛を求める妻と
妻を愛するだけの夫の間の結婚は、幸福になりやすいのは後者です。なぜなら前者は金、世間体、束縛を手にすることで一時的な幸せは手にしますが、結婚とはこれらを手にするだけに止まりません。姑、子育て、束縛だってついてきます。次に妻は自由やさらに多額の金、裕福な結婚生活など、次から次へと物質欲求が出てくるかもしれません。
対して夫は妻を愛しているので、妻に経済的援助、世間体、安心を与えられたことそれ自体に幸せを感じる事になります。だからそもそも結婚によりトラブルが増えたり、困難が増えたとしても、与える事や愛する事それ自体に幸福を感じているうちは、幸福は持続するわけです。
これらは結婚とはなにか?にて述べたいと思います。
(愛についての定義で私は、愛とは大切にする事と定義づけていますが、
愛の本質には、【存在の肯定=繋がり】があると述べました。
実際には愛ではなく繋がりが人を幸福にさせる原因だと思いますが、愛と表現したほうがわかりやすいので、そのように定義しました。)
皆さんも一緒に幸福について考えてみませんか?
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そんな気もするが、違う気もする。
とお思いでしょうか?
大丈夫です。なぜならこれは、
"私"の幸福に対する"定義"だからです。
あなたが納得できなければ、
あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"
が作成できるはずです。
(私のブログの読み方 参照)
自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?
次回、定義の考察編をご覧ください