自問自答のすすめ

『人生が変わる。自分を変える。』

喜び・悲しみとはなにか?『応用編』

ようこそ
このブログは、自問自答をとおして、
『自分の人生を歩む事』をテーマに、
 
"友とは何か? 人生とはなにか?"
などの様々な難問に対し、
私自身の『定義』を作り
応用していく過程を公開する事で
 
ご覧になった方々の
思考のキッカケになる事を目的に作成しています。
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【前書き】(ブログをご覧になる前に)
私のブログの読み方 (自問自答の方法 記載)
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今回の定義
喜び・悲しみとは?
欲求の対象の充填・喪失により起こる反応(感情)】
喜びと幸せの違い?
【幸せ…充足した状態 
 喜び…充填した時に起こる反応】

 

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目次
 
今回のお題や定義について、
皆さんはいかがお考えでしょうか。
私の定義にしっくりくる方もいるでしょうか?
(応用編は”私”の定義の活用例ですので、参考程度にご覧ください。)
 
定義を使っていくと、
世の中に溢れる様々な言葉について、
どんな意味合いで使われているのか。
私の世界観で見ていくと、次のように捉える事ができます。
それでは、今回の応用編の問答を始めます。
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《悩み編》

問 家族が亡くなったのに、悲しいという気持ちがない私はおかしいのか?
 
定義に当てはめて考えると、家族が亡くなった事に喪失感を覚えない。
という事になる。
 
となると、当然おかしいとはいえない。
むしろ、家族が亡くなって全員が全員悲しいという感情を抱くほうが不自然である。
 
喪失感があるということは、元々あった。という前提がある。
となると、家族の定義で述べたけれども、
自身にとっての家族の定義を自問自答により導き出し、何を失ったのか?
を考えれば自ずとこの疑問の答えはでる。
 
 
筆者は身内が亡くなった時、悲しい気持ちを抱かない人間の一人であり、この疑問に対する筆者の答えはこうだった。
 
 
家族は私にとって『繋がりや、愛』であって、その物質ではない。
家族が与えてくれた愛こそが家族であり、
家族それ自体は筆者にとって家族ではない。
 
だからその、家族を失ったとしても、私の中でその『繋がり・愛の記憶』は喪失していない。
 
簡単に言えば、死んでない。
私の中に生き続けている
 
というのが、筆者の考えだということであり、悲しみを抱くことがない。
 
むしろ筆者は、家族からもらった愛の証(生前に貰い受けた形見)などを喪失した時に深く悲しみを覚えるタイプであるのだとわかる。
記憶はなくならないが、
証は物質である以上なくなるからだ。
 
 
筆者のような考えではなくとも、例えば
人が死んでもその物質は再構成され、別の物質となるだけであり、その人は自らの体の一部となるかもしれないし、というより、人間は皆同じ物質で作られているのだから、死んでも生きていても、同じである。
 
という考え方を持っていたとすれば、
その人もまた、人の死を悲しみはしないだろうと思う。
死のうが死ぬまいが、同じ物だからだ。
 
 
結局、悲しみというのは対象もその幅も、人により異なるものなのだ。
 
 
 
 
問 プレゼントを貰ったが素直に喜べない。
 
 
これは悩みと言っていいのかどうかわからないが、
本人がわかっているはずである。
 
喜びというのはあなたの欲求の達成である。
そのため喜べないのは、あなたが欲しい事柄ではなかったからに他ならない。
 
喜べないものを、喜べというのが間違いである。
 
 
例えば世間一般で、プロポーズは嬉しいものだとされている。
男性陣もプロポーズはされて嬉しいものだと思っているものが多い。
 
告白についてもそうだ。『好きだ』と言われて嬉しいというのが通常だと
思っているものが多い。
 
 
また仕事面においては、
人は褒められるのが嬉しい。だからおだてておけば良い。といったものもいる。
 
 
 
もちろんこれら全て、勘違いである。
プロポーズされて嬉しくない人など沢山いるし、
好きだと言われて不快に思う人も多い。
褒められると馬鹿にされているのかと思うものもいる。
喜ぶのが当然だ。というほうがおかしいのだ。
 
 
 
 

《名言編》

(名言編は定義を通じ名言を筆者独自に解釈する。)
 
 
悲しみは知識である。多くを知るものは、恐ろしき真実を深く嘆かざるを得ない。知識の木は生命の木でないから。ブレーズパスカル
 
悲しみとは?【知識】と言っている。
私の定義は、悲しみとは反応の事であり、全く定義が異なる事がわかる。
 
私の定義で解釈するために屈折させて無理やりねじ込むとすれば、
悲しみの原因は知識にある。といえば筋が通る。
 
知識とは見ている世界を広げる事に等しい。
であれば、世界が広がるにつれ、自らが置かれている状況の虚しさに気づく。
たくさんのものを喪失したのち、自分がここにいるのだとわかる。
知らなければ今ここで喜びに満ちる事もできる。
しかし、知れば今ここの喜びなど到底およばない悲しみに気づく。
 
と、浅薄だが言葉の意味を解釈する事もできる。
 
 
人は肯定において喜びを感じ、否定において悲しみを感ずる。しかし真実の喜びというものは深い悲しみの経験のないもには味わう事は出来ない。柳田謙十郎 「弁証法入門」
 
これについても既に述べた。
主に人は、肯定に喜び、否定に悲しみを感ずる。
というのは欲求の尊厳欲求の段階であり、人間共通である。
そのため、皆に共通すると言って間違いではないと私も思う。
 
これは私のブログで再々言ってきた、繋がり(存在の肯定)を普遍的に求める。という事と
同じ事を言っている。
 
 
真実の喜びというのを私は味わった事がない。なぜなら、
日本という恵まれた国にうまれ、愛する両親や兄弟の元に育ち、
何不自由なく今の今まで生きてきたからだ。
 
私の人生に苦しみなどなかったと言っていい。そんな私には真実の喜びがわからない。
想像を絶する喜びなのだろうという事くらいはわかる。
 
 
喜びを人に分かつと喜びは2倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる。ティートゲ『ウラーニア』
一人の喜びは決して一人のみに限られたものではない室生犀星
 
これはシェークスピアの小説にも出てくる言葉である。
悲しみは人と分かち合う事ができるらしい。
 
私にはこれがわからない。
喪失感を人と分け合うとは何なのだろうか?
高揚感を人に分かつと2倍になるとは何なのだろうか?
 
私から言わせると、
喪失感を感じながら人にその喪失感を話すと、
別の喜び(肯定や、居場所欲求)があった事によって、悲しみが和らぐ。
 
一方
何らかの欲求の達成があった場合に、他者にその喜びを共有させた事で、
別の喜び(肯定や、居場所欲求、名誉欲求)が満たされ、喜びが増す。
 
といった形にはなるが、
分かち合う事ができるとはまではいえない。
やはり私が未熟でよく分からない名言である。
 
 
 
いかなる場合にても、喜び多ければ大なるほど、それに先立つ苦しみもまた大なり。アウグスティヌス『告白』
苦労こそ人生の姿である。我々なお最後の歓びと慰めは、苦労した過去の追憶に他ならない。ミュッセ
山の頂にたつ喜びは、もしそこへ至るまでに越えるべき暗い谷間が一つもなければ、半減されるでしょうヘレンケラー
 
これは考察編で述べた。
枯渇した状態で水を飲むのと、
散々コーラを飲んでお腹いっぱいの状態で、水を飲むのとの違いである。
 
 
快楽より悲しみが起こり、快楽より恐れが起こる。快楽より解脱したる人間にとりては、もはや悲しみも恐れもなし。お釈迦様 
 
私の定義に要約すると、
満足状態(幸せ)になるから悲しみがある。 
喜び=快楽から悲しみが起こる。悲しみが嫌だというのなら、
 
そもそも、欲求に従う日々をやめなさい。
幸福を求めるのを辞めなさい。
幸福に見向きもしない人間になれば、そもそも悲しみなどないのだ。
 
 
となる。簡単に言えば、深い悲しみという不幸は快楽から生まれる。だから、そもそも欲求に支配されるな。という事だろうか。
人は生きていると、基本皆自身にとって楽で、簡単で、欲しいものが手に入る方向に向かう。だがお釈迦様は、欲しいものに見向きもせず、楽をせず、険しい道をいくように説いた人だという事だろう。
 
 
 
参照
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このように、
自分の定義を作成しておけば、
 
今回であれば『喜び・悲しみ』について、
時間をかけずとも、
自分はその対象をどう捉えているのかを把握したことにより、
瞬時にその他の解釈を生み出すことができます。
 
自問自答による『定義』というのは、自分だけの、
数学の定理のようなものであるのです。
 
のようなものであるのです。
 
以上
応用編を終えます。