自問自答のすすめ

『人生が変わる。自分を変える。』

才能・天才とはなにか? 『定義編』

ようこそ

このブログは、自問自答をとおして、

『自分の人生を歩む事』をテーマに、

 

"友とは何か? 人生とはなにか?”

などの様々な難問に対し、

私自身の『定義』を作り

応用していく過程を公開する事で

 

ご覧になった方々の

思考のキッカケになる事を目的に作成しています。

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【前書き】(ブログをご覧になる前に)

このブログのテーマ

『考える力』とは?

『私の定義』とは?

私のブログの読み方 (※自問自答の方法 記載)

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『才能とは何かの事がとても好きって事なんじゃないかな』

 

 

そんなドラマのセリフを聞いて

違和感を感じ、今回のテーマについて自問自答することにした。 

 

あなたにとって才能とはなんですか?

 

目次

 

 

 

それでは今回の私の定義を参照します。

(自問自答の定義は、あくまで私の定義であるため違和感のある方は、自身で自問自答をしてみてください)

 

 

 

 

才能とは?

目的を達成する力 (先天的・後天的 区別はない)

力……… 力の定義参照

目的…… 例: 速く走る 職業上の成果 賞をとる 敵を倒す・・・

先天的… 例: 素質 センス 向き不向きのなど(性格 体格 性別 人種)・・・

後天的…   例: 意志の強さ 粘着質 努力好き 熱意 責任感・・・

 

『才能がある』 とは?

先天的なものをさすことが多いが、後天的なものをさす人もいるためややこしい。

一般的には、目的を達成した人=才能がある人とみなされるんだなと捉えればいい。

 

目的を達成すれば才能があった事になるのだから、才能がないからできない。なんて事になるのは、とくに達成率が低い分野についてでしょう。なにかの分野で世界一位になろうとすればそれ相応の素質+後天的性質が必要になります。

 

目標が高ければ高いほど、高度な才能が要求されます。

 

 

上記のドラマのセリフは、案外的を射ていました。

好きな気持ちは労苦を緩和します。その力により、目的を達成しやすくなるため、才能の一例となりうるからです。

 

天才とは?

圧倒的な才能  (先天的・後天的 区別はない)

 

その人物以外にはできない偉業を遂げた。などすると、とんでもない才能とみなされるわけだ。

こんな単純な定義なのに、これらの意味について、疑問を抱く人がたくさん発生する理由はなにか?

 

 

 

 

これは私の定義なら以下の理由からきます。

 

事例を出してみます

 

ジョン・フォイ・ノイマンと言う人物はご存知でしょうか?

あのアインシュタインが、本当の天才と呼んだ人です。

世界中の誰もが彼の事を知れば、ああ、天才だ!と感じると思います。答えをだす。という目的に対し、

圧倒的な才能を誇った世界の天才と呼んでいい人物だと思う。

 

話を変えて

私の住んでいた学校では、中学校のテストで常に90点をとり 進学校に受験しようとするA男くんを神童又は天才と呼びました。 

なぜなら、私の通っていた中学校で、90点以上の点数をとる人物は少数だったからです。 

 

場所を変えて、東大受験を目指す子供たちが多い中学校にA男くんが通っていたとしましょう。

そこの生徒は100人中90人は90点以上をとっている中で、A男くんは天才と呼ばれるのでしょうか?

 

 

また先ほどのノイマンと比較した時、あまりにも天才という同じ言葉の重みが違うように感じます。 

天才にランクがあるとすればノイマンが天才SSSでA男くんは天才Eといッタ感じでしょうか。

 

そうです、

天才という言葉だけでは

どれくらいの達成力があれば天才と呼ばれるのか?

圧倒的と定義づける対象物はなにをさすのか?...人類の中で天才? 地域の中で天才?

誰から見て天才なのか?

そういったものが不明確なのです。

 

 

 

もうお気づきかと思います。

私のブログでいつも言っている、言葉の意味をややこしくしがちな、いつもの定義の登場です

 

天才の程度?

人、社会により異なり、無数に基準が存在する

 

小さな社会(群れ)の中での天才の基準と、大きな社会(群れ)の中での天才の基準とでは、

規模やレベルが全く異なるのです。 

 

小さな社会(例えば私の中学校)の中では先ほどのA男は天才だと呼ばれますが、

大きな社会(例えば世界)の中ではA男くんを決して天才とは呼ばないでしょう。

 

小さな社会ではその地域で秀でていれば天才とみなされますから比較的一般的な努力等でカバーできる程度の天才(E)でしょうから、これを見た一部の人たちは、”天才”というのは自分だってなろうとすればなれるんだろう。と考えたりします。

 

しかし 世界基準の天才は、尋常ではない(おそらく人間とは思えないレベル)努力量や粘着質、発想力や行動力。なにかの障害を持っていたのでは?と疑われる人物であったりするのはそのためなのだとわかります。その人物を見た一部の人たちは、”天才”にはどうあがいたってなれない。あんなすごい人、同じ人間だと思えない。 と考えるかもしれません。

 

このような理由から

『天才は継続して努力できる人のことでしょ?』と言う人と

『天才に努力で追いつける?そんなわけないだろう?追いつけないから天才なんだから』

といった言葉に差が生まれます。

 

視野が広ければ広いほど、天才のハードルは上がっていきます。

視野が狭ければ狭いほど、天才のハードルは下がります。

例えば毎日歯磨きを継続できる人を天才だと呼ぶ人間も存在する可能性があることになるわけです。

 

 

これらのことを一言で、

ことわざで表すと、『井の中の蛙 大河を知らず』ですね。

 

 

 

 

 

そんな気もするが、違う気もする。とお思いでしょうか?

大丈夫です。なぜならこれは、"私"の"定義"だからです。

 

あなたが納得できなければ、あなた自身で自問自答をすれば、別の"定義"が作成できるはずです。(私のブログの読み方 参照)

それこそがあなたの、世界観であり、あなたが生きている世界です。

自問自答の定義の意味が、ご理解いただけましたでしょうか?

 

それでは次回応用編をお楽しみに